フジテレビ騒動が暴いたテレビ局の腐敗とジャーナリズムの危機(後)
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『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏
タレントの中居正広の「性的トラブル」発覚から始まったフジテレビの大騒動は、オールドメディアであるテレビ局のコンプライアンス軽視とガバナンス欠如を暴き出し、旧態依然とした統治システムの腐敗が救いようのないところまで進んでいることを満天下に知らしめた。
しかし、こうした問題を抱えているのはフジテレビ一社だけではない。この“事件”がテレビ時代の終わりを告げることになるのか、問題の本質がどこにあるのか、私見を交えて考えてみたい。(以下、文中敬称略)2回目のフジ会見と文春の訂正
1回目の失敗に懲りて、フジテレビは全メディアに解放し、質問者が全員終わるまで続ける会見を開いた。午後4時過ぎに始まった会見は延々10時間半におよび、怒号が飛び交うなど“異様”なものになった。
フリージャーナリストやネットメディアを含めて400人以上が集まったようだ。会見の初めに、今回の騒動の責任をとって港浩一社長と嘉納修治会長の辞任が発表された。
だが、長時間にわたり、挙手した人間の質問にはすべて答えるというフジ側の姿勢や覚悟はうかがえたが、予想通り、フジ側は被害女性のプライバシー保護を楯にして、事件が起こって被害女性がフジの上司に相談した内容や中居とのトラブルの真相などの核心について、一切、ひな壇の人間たちが答えることはなかった。
だが、この会見の裏で、文春がこっそり有料版に「訂正とお詫び」を載せていたことを、フジ側も質問者側も知らなかったのである。
「中居正広・フジテレビ問題について」として、「昨年12月26日発売号では、事件当日の会食について『X子さんはフジ編成幹部Aに誘われた』としていました。しかし、その後の取材により『X子さんは中居氏に誘われた』『Aがセッティングしている会の”延長”と認識していた』ということが判明したため、1月8日発売号以降は、その後の取材成果を踏まえた内容を報じています」。そのうえで、「Aが件のトラブルに関与した事実は変わらないと考えています」としている。だが、本当にそうだろうか?
文春は1月2・9日号で、X子の知人の話として、その日、中居を含めた大人数で食事をしようとフジテレビの編成幹部のAから誘われ、「Aさんに言われたからには断れないよね」と渋々参加した。だが、直前になって「彼女と中居さんを除く全員が、なんとドタキャン」して、密室で2人きりにされ、「意に沿わない性的行為を受けた」と報じていた。
それが1月16日号では、やはり知人の話として、「あの日、X子は中居さんからAを含めた大人数で食事をしようと誘われていました」と変わり、直前になって中居から、「みんな来られなくなってしまったけど2人でもいい?」というメッセージが届いたと報じているのだ。これほど重大な変更なのに記事中、なぜ、Aではなく中居から誘われたと記述を変えたのかの説明はまったくなかった。
取材力に定評のある文春がX子の発言の裏を取らなかったのだろうか。文春砲の信用を著しく傷つけたといわざるを得ない。事件を起こした芸能人に文春がいつもいっているように、会見を開き、なぜ間違ったのかを竹田聖編集長が丁寧に説明する必要があるはずである。
この中居事件は、フジだけではなくテレビというかつての大メディアが抱えているさまざまな“病根”を浮き彫りにした。
TBSは社内調査で、フジテレビの編成幹部から誘われ、中居たちとの飲み会に女性アナウンサーが参加したことがあったと公表している。他局も同様の「女子アナ上納」システムがあったと考えるほうが自然ではないか。さらに、今回の問題を複雑にしているのが、中居の被害者であるX子のプライバシーに配慮するため、フジの上層部のコンプライアンスの欠如やガバナンス不足は指摘されているが、具体的に2人の間に何があったのかがわからないまま、フジテレビ叩きが進んでしまったことである。
では、ジャーナリストとして、被害者のプライバシーをできるかぎり尊重しながら、この“事件”の取材を進めることは、被害者に対する「二次加害」になるから、してはいけないのだろうか?
私の個人的な考えだが、やり方はあるはずだと思っている。それに、X子は、文春や週刊ポストの取材には匿名だが答えているのだから、取材者側が自主規制する必要はないのではないか。
ジャーナリストの青木理もサンデー毎日(3/2日号)でこう書いている。
「もちろん、慎重に扱うべき問題であることは理解できる。(中略)ただ、事案の重大性と影響に比して問題の原点であり核心があまりに朧にすぎはしないか。ましてや、事実の核心へとギリギリまで迫ろうという行為が『二次加害』を理由に遮断されれば、ジャーナリズムの仕事まで封じられてしまいかねない危うさをも孕む」そのなかでジャーナリストの魚住昭の言葉を引用している。「心の奥深くから湧き上がってくる、知りたい、書きたいという取材者の衝動」、それは取材者の業なのだというのである。そんな業をもった人間など、今のフジテレビにはほとんどいないのだろうが。
テレビの報道機関としての役割は終わったのか
テレビは報道機関であることを忘れてしまった。今回の騒動が明るみに出したのは、テレビは楽しければいい、かつてのジャニーズ事務所や吉本興業のような大手芸能プロとつるんで、タレントたちにヨイショしていればいいと考える経営者や幹部たちが実権を握っているテレビ局の惨状だった。
ノンフィクション作家の本田靖春が『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)で、テレビについて書いている。本田は重度の糖尿病を患い、両足切断、片方の目を失明、片方も見えにくくなっていた。入院先のベッドで、指に万年筆を縛り付け天眼鏡で、まさに石に彫るがごとく一字一字書きながら、連載を続けていた。
それ以外のときはテレビをつけたままにしていた。その本田が亡くなったのは04年だから、00年代初めの頃ということになる。
「テレビを観るとバカになる、というのは本当である。事実、私もかなりバカになった。職業的ミーハー集団ともいうべきテレビ局が、バカを相手にバカ番組ばかりつくっているのだから、元来、バカの資質がある視聴者たちが正真正銘のバカになるのは、当然の成り行きであろう。
今は愚民の最盛期である。そうした風潮を招いた元凶はテレビ(一応NHKは除く)である、と断言して憚らない」これが書かれてから20年以上がたつが、さらに事態は深刻になっているように思う。奇声を挙げてゲラゲラ笑うだけの芸なし芸人。驚くほどうまいものなんて世の中にそうはないのに、何でも口に入れては「おいし~」と嘆声を上げる食い物レポーターたち。テレビドラマの原作の多くは他社の小説かマンガからである。
だが、本田もいうように、このようにした責任はテレビ局だけにあるのではない。テレビを観る側にも責任があるはずだ。そこを考えない限り、テレビの国民総バカ化は止まらない。
(了)
<プロフィール>
元木昌彦(もとき・まさひこ)
『週刊現代』元編集長。1945年生まれ。早稲田大学商学部卒。70年に講談社に入社。講談社で『フライデー』『週刊現代』『ウェブ現代』の編集長を歴任。2006年に退社後、市民メディア「オーマイニュース」に編集長・社長として携わるほか、上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。日本インターネット報道協会代表理事。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)など。
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