【連載】コミュニティの自律経営(33)~渡部晶さんのこと
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元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。
連載の第1回はこちら。※渡部晶さんのこと
平成13年(2001)1月26日、K総務企画局長の逮捕には大きな衝撃が走った。1年で一番大切な当初議会が目前に迫っていたし、第1回目のDNAどんたくの開催(2月16日)が準備万端で間近に控えていた。なんせ、総務企画局長だから、中で穴を埋めようとすれば、玉突きでいろいろ動きが出てしまい、当初議会を目前にして、それは不可能だった。
そのころ僕は大蔵省から三重県の総務部長に出向して、北川正恭三重県政改革の立役者となり、「WHY NOT」という行政改革を志すメンバー達とのグループを立ち上げていた村尾信尚さん(当時財務省国債課長/後に三重県知事選挙に立候補し落選、その後日本テレビ系「NEWS ZERO」のメインキャスター/現関西学院大学教授)とお付き合いがあった。福岡市には三重県政における村尾さんのような存在が不可欠だと思っていたので、広太郎さんに財務省からの派遣の了解を取り付け、さっそく都内のホテルでお会いした。その後、市長ルートで交渉し、当時の官房長から「最も適材の人物」として推薦いただいた、財務省理財局計画官補佐の渡部晶さんに来ていただけることになった。
広太郎さんは記者会見で「市の体質が問われている時期なので、外から清新な人材を求めた」「新しい感覚、視点で情報公開、公務員倫理などの諸問題をやってもらいたい」(H.13.2.24 西日本新聞)と語っていた。渡部さんの総務企画局長発令の2月26日は、なんと2月議会初日だった。ちょうどこのころ、SBCの破綻処理もありで、博多港開発(株)への融資について銀行団との協議が紛糾しており、いきなり渡部さんが矢面に立つ場面もありで、申し訳なかった。
渡部さんの功績を語るうえで、情報公開日本一のことは外せない。着任当時、情報公開制度の拡充に向けて福岡市情報公開審査会へ諮問するタイミングであり、渡部さんはさっそく市内部のオンライン(DNA掲示板)に「情報公開度1位を目指す」と宣言された。また、市議会の意向などを臆病なまでに気にする職員に対しては、「事務局としては審査会や市民の意見をしっかりと踏まえて、恥ずかしくない内容の条例をつくることが大事であって、市議会は市民代表として、またさまざまな角度からの議論がある。その結果、仮に否決されたとしても、事務局として恥ずべきことではない」とその強い決意を伝えていた。この取り組みで事務局として終始中心的な役割を果たしたのが、情報公開室情報公開係長の寺島浩幸君であるが、当初は「やるのはいいけど、どこまでやればいいのだろう、どこまでやっていいのだろうか」との戸惑いを禁じ得なかったらしい。しかし、率先垂範して先頭に立った渡部局長の「情報公開日本一を目指そう!」という思いと、広太郎さんの「思いっきりやれ!」の号令に、彼持ち前の突破力と使命感が鼓舞され、情報公開日本一に邁進した。
そのようなプロセスを経て、平成14年(2002)7月に施行された新しい情報公開条例は、実施機関に地方公社を加え、公開請求から決定までの期間を原則として7日間とし、市の出資法人などについては、情報公開協定方式を採用するなど、随所に政令市で初めての先進的な内容を盛り込み、関係者の間で高い評価を受けるに至った(※平成14年8月日経新聞「第3回行政サービス調査」において、本市の透明度は11位(前回139位)にランキングされた)。
渡部さんが着任された当時は、市長室長の陶山さんが異動しており、僕には親身になって相談できる相手がいなかった。局部長達のなかには、若いころから顔を見知った人もいたが、彼らにとって帰り新参の僕は「虎の威を借りる狐」のような存在だったのだろうし、僕は僕で彼らの市長に対する面従腹背の気配を感じてしまっていた。市長がやろうとすることに対して、正面から向き合おうとしてくれる渡部さんは、とても大切な相談相手だった。
当時、僕は不思議な感覚に苛まれていた。翌年、総務省出身で、財務局長に就任された山崎一樹さんも同じなんだけど、生え抜きよりも外部から来られた方が頼りになる?なぜなのか?長年のしがらみや背負っているものがなく、限られた任期を務めるのだから、やりやすいというのは誰もが思うことだが、それだけだとも思えなかった。議院内閣制の国政での政官関係といわば大統領制(二元代表制)の地方自治体での政官関係の違いがあるのか、はたまた長期雇用を前提にした日本型経営と社外取締役を重要視する新たなコーポレイトガバナンスとの違いを示唆しているのか?いろんなことを考えていた。いずれにしても、渡部さんの存在は支えであり、2年半後の渡部さんの退任を境に、あっという間に僕は潰れていった。
渡部さんは大変な読書家で、2年半の在任中に、局長室は本で溢れ、まるでまちの本屋並みの蔵書の数だった。今、あちこちの媒体で書評を書いておられる。また、昨年の人事異動で財務総合研究所の所長に就任された。局長級のポストであり、新聞で見つけて、すぐに広太郎さんの愛娘/満喜子ちゃん、和歌子ちゃんに伝えて、美知子夫人と霊前に報告しておくようにと依頼した。広太郎さんは、渡部さんが福岡市に来てくれたことが、キャリアに傷をつけることにならなければいいがと、ずっと心配していたので、きっと草葉の陰で喜んでいてくれるだろう。
もう1つ、渡部さんには感謝しておかなければならない。僕は平成9年(1997)に九州大学大学院に入学し、修士論文を書く年に市長選挙に突入してしまい、以後休学同然となっていた。仕事に追われ、修士論文は半ば諦めていた。在籍可能な7年目の平成15年(2003)1月30日の〆切がラストチャンスだった。平成14年(2002)11月の市長再選後だったか?渡部さんの号令で、馬場君や奥田君達、DNA組が秘かに集められ、僕の修論対策チームが結成されていた。僕も腹をくくって修論作成に取り組むことになった。こうして提出期限最終日の1月30日に、本文96p/77,166字/資料編70pからなる僕の修論『体験的NPM論―福岡市DNA改革の検証―』を提出できた。修論審査の主査は福岡市経営管理委員会委員をお務めいただいた山田治徳助教授、副査に指導教官の今里滋教授、木佐茂男教授にお務めいただいたが、大変好意的に評価いただき、今里教授からは出版を勧められた。もたもたしている間に20年の歳月を経て、ようやく今回の本著の出版の運びとなっている。木佐先生は北海道ニセコ町での自治基本条例制定を指導されており、ご著書の『豊かさを生む地方自治』のファンだったので、北大から九大に来られたことを喜んでいたが、まさか僕の修論の副査をお務めいただけるとは思っていなかった。ご評価いただいたことは大変光栄なことだった。木佐先生の九大定年退官の折は最終講義を拝聴させていただき、退官記念パーティではご挨拶の機会までいただくことになった。
いずれにしても、渡部さんのハッパがなければ、この修論が世に出ることはなかったし、今回の出版もなかっただろうと思うと、改めて、感謝を申し上げたい。
(つづく)
<著者プロフィール>
吉村慎一(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
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