2025年2月10日 15:30
平成11年(1999)4月、民間経営手法導入のための組織、市長室経営管理課の主査として福岡市に採用になった筆者の心境は、さあやるぞという気負いとともに...
2025年2月7日 16:05
選挙を重ねた候補者は選挙カーに乗ると、選挙情勢がわかるというが、広太郎さんもその1人。初日の感想は「日本新党の時以上の反応だ」と。
2025年2月6日 17:50
公約に「財政危機宣言」などと煽っていたので、「市の財政課が怒っているけど、大丈夫ですか?」と取材担当の記者さんが、心配そうに聞いてきた。
2025年2月5日 17:30
広太郎さんを含め陣営でも桑原市政の問題点を整理していったが、大きくは以下の3点に収斂していった。
2025年2月4日 17:00
それは平成10年(1998)7月下旬のある日、広太郎さんからの一本の電話から始まった。「市長選挙をやることになるかもしれないので、お前1人で準備を始めておいてほしい」と。
2025年2月3日 17:40
平成9年(1997)春、大学院入学当初、手にしたのが、『行政改革の視点』(1996.増島俊之)であり、『行政改革』(1996.田中一昭)であった。
2025年1月31日 18:00
落選確定の翌日、新進党県連に呼び出され、僕を含めて秘書全員の解雇が通知された。僕は党と雇用関係を結んだつもりはないし、すでに衆議院の解散によって政策秘書の身分を失っている。
2025年1月30日 17:30
初めての小選挙区による総選挙を目前に、新進党新聞の号外を発行したが、その内容は政策担当秘書としての僕の卒業論文みたいなものだったので、ここに揚げておきたい。
2025年1月27日 17:40
僕は地方分権の受け皿として、国から県市町村への役所同士の権限のやり取りばかりでは意味がない、だからと言って1人ひとりの市民が受けられるわけでもないしと思っているときに、NPOという存在を知り、受け皿はこれだと思った。
2025年1月24日 17:50
秘書に就任するにあたって、広太郎さんからは「フィフティ・フィフティで行こう」と言われていた。いわゆる「先生と書生」という関係ではないということだったのだろう。
2025年1月23日 18:00
そして僕にも大きな決断の時がきていた。確か投票日の2、3日前だったと思うが、誘われて遅い夕食に行った。
2025年1月22日 18:00
嵐のような日々が過ぎて、僕は調査課調査第一係長として、引き続き議会事務局に在籍することになった。執行部からは僕の人事異動について打診があったが、局長が出さないと返事したとの話を聞いた。
2025年1月21日 18:00
表立っては動けなくなったが、いろいろやった。もう時効だろう。秘密の一室があてがわれ...
2025年1月17日 17:30
港湾局3年目、いよいよ3月にはアジア太平洋博覧会が開幕するという平成元年(1989)の初め頃だったろうか?
2025年1月16日 17:30
住宅用地26.8㏊を市住宅供給公社に24.4㏊、住宅・都市整備公団に2.4㏊売却することを決め、昭和62年(1987)6月議会に埋め立て地の処分議案を提出した。
2025年1月15日 18:00
昭和61年(1986)4月、港湾局舎は博多区石城町に在り、6年ぶりの天神本庁舎復帰とはならなかった。当時港湾局は、西部と東部の埋め立て事業など、ビッグプロジェクトを抱えていた。
2025年1月14日 17:00
昭和56年(1981)春の人事異動で、高卒ながら41歳で課長級に昇任した柴田さんから指名いただき、都市開発局姪浜開発担当となった。
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