【連載】コミュニティの自律経営(60)~広太郎さんのDNA

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 元福岡市職員で、故・山崎広太郎元市長を政策秘書などの立場で支えてきた吉村慎一氏が、2024年7月に上梓した自伝『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』(梓書院)。著者・吉村氏が、福岡市の成長時期に市長を務めた山崎氏との日々を振り返るだけでなく、福岡県知事選や九州大学の移転、アイランドシティの建設などの内幕や人間模様などについても語られている同書を、NetIBで連載していく。
 連載の第1回はこちら

 広太郎さんは、「国民が自分が主権者であり、この国や社会を構成し、そしてそれを自分たちにとってより良いものにつくり替え、かつその責任を取るということを自覚しなければならない」「国民が秘かにでもよい、この国の主人公は自分だと、ないしは自分たちであると自覚しただけで、我が国の民主主義は新たな展開を始める」と言っていた。

 僕は、これまで行政改革や議会改革に取り組んできたが、辿り着いたのは主権者としての市民のありようである。「主権者意識を育み、市民自治を創造する」ことをミッションとする『広太郎塾』をライフワークとして取り組んでいきたい。

 広太郎さんの墓碑銘として二人の記者の記事を紹介しておきたい。

≪評伝 筆鈍らせぬ懐の広さ≫

三宅大介さん 2021.3.12 西日本新聞朝刊

 深夜、自宅玄関のチャイムを鳴らすと、必ず奥の客間に通してくれた。アイランドシティ(当時は人工島)開発、新福岡空港論議、地下鉄延伸、五輪招致──。「そりゃおまえ、まだ言えるわけなかろうもん」。困ったような、でも人懐っこい笑顔を浮かべて。

 福岡市政を担当した私は市長の山崎広太郎氏と2003年から仕事で向き合った。右肩上がりの時代が終わり、大型開発は転換期。トップが難しい判断を迫られる場面ばかりだった。

 われわれの間にはルールがあった。私は「良い点も悪い点もきちっと書く」。市長は「取材は拒まない、うそはつかない」。漏らせないなら「(イエスかノーか)言えない」と答える──。政治家の多くは都合が悪いと顔を見せない。山崎氏はルールを守った。どんなに厳しく書いた翌日でも、黙って家に入れてくれた。

 16年五輪招致で、福岡市が東京都と争った06年、決選投票の取材に私も上京した。結果発表の直前、下馬評で優位の石原慎太郎知事(当時)の指は震えていた。対して山崎氏は泰然自若。負けが決まった瞬間は残念そうだったが、後で話すと「あと一歩やったな」と後ろ向きな言葉は皆無。「(地方の)意地は示せたやろ?」。こだわった政策には揺らぎがなかった。

 五輪招致を巡り、私は懐疑的な記事を書き続けた。3選を目指したその年の選挙で、山崎氏は落選する。破ったのは本紙の先輩記者。私に対しても当初、山崎氏がわだかまりを抱えていたと後に周囲から聞いた。

 「2年おきぐらいに、おまえと飲みたくなるんよ」。そんな電話がかかったのはいつごろだろう。居酒屋で酒を酌み交わすようになった。酔うと必ず「菊竹六皷になれ!」と言われた。

 中央の新聞が恐れる軍部批判の記事を書き続けた旧福岡日日新聞の大先輩の名前だ。おかしいと思うなら声を上げよう──。山崎氏は12年「紙一重の民主主義」と題し、国民主権の大事さを訴える著書を刊行。ペンでそんな信念を貫ける報道の仕事に、共感があったのかもしれない。だからわれわれとの面会も拒まなかったのか。尋ねても、黙ってニコニコしていたけれど。

 地元では「広太郎さん」と呼ばれて親しまれた。落選した市長選最終日の夜、雨の中で昔なじみの年配の女性が頬にキスしていた。人付き合いの良さと懐の広さで、選挙も強かった。

 是々非々を貫かなければ、地元紙として信頼は得られない。筆を鈍らせずに済む人と巡り合い、私は幸せだった。笑うとますます目が細くなる丸顔を思い浮かべ、涙が止まらない。

≪広太郎さんのDNA≫

論説委員 前田隆夫さん 2021.4.6 西日本新聞「風向計」

 福岡市が2002年に開設した市民活動の拠点は、施設の名前に確かな理念が宿っている。当時のエピソードを最近知った。地場企業から市役所に出向し、開設準備に奔走していた加留部貴行さん(54)は、ある人にくぎを刺されていた。

 「加留部君、一つだけお願いだけどな、名称に『支援』とか『サポート』という言葉を使わんでくれんか」「市民同士で自発的、自主的に活動するNPOやボランティアに、行政がわが物顔で『支援』とか『サポート』なんておこがましいから、それだけはやめてほしいんだよな」。正式名称は「NPO・ボランティア交流センター」に決まった。愛称は「あすみん」。「あすを担う市民のための場所」の意味がある。

 名前にこだわったのは山崎広太郎市長だった。市長を務めた1998年から2期8年は福岡五輪招致や大型事業の見直しが紙面をにぎわせた。山崎市政の背骨が市民自治であったことは、案外知られていないかもしれない。

 1期目、DNA運動と名付けた行政改革に着手した。民間経営手法の導入はあくまでも手段。市民の力を引き出すために市職員の意識と行動を変える。目標は市民によるコミュニティーの自律経営だった。その仕組みとして小学校区に自治協議会をつくった。「自治意識を持つ市民を育てて、健全な自治体をつくっていかなきゃ」「自治協議会の機能をどんどん高める。それが僕の3期目の仕事だと思っていた」。

 3度目の市長選に落選した後、母校九州大の研究グループが起伏に富む政治歴を聞き取ったときも、持論を繰り返し語っていた。市民と行政のパートナーシップを表す言葉は「協働」ではなく「共働」を使い、対等な両者が一緒に働く関係性を強調した。

 2年前、山崎さんは九大で政治学の講義を聴講し、出水薫教授に「市民による政治をどう実現するか」と意見を求めたという。大学院で研究する意欲も抱いていたが、今年3月、79歳で急逝した。

 思い描いた理想が実現したとは言い難い。本人も道半ばと考えていたのだろう。政治家・山崎広太郎に最も近くで接してきた元福岡市職員の吉村慎一さん(68)によると、昨秋から政治塾の構想を膨らませていた。「ほとばしる熱があった。それを無にしたらいかんと、しみじみ思う」。遺稿となった趣意書を携え、具体化を目指している。

 DNA運動を参考にした自治体の業務カイゼンは全国に広がった。遺伝子は受け継がれている。(論説委員)

(つづく)


<著者プロフィール>
吉村慎一
(よしむら・しんいち)
1952年生まれ。福岡高校、中央大学法学部、九州大学大学院法学研究科卒業(2003年)。75年福岡市役所採用。94年同退職。衆議院議員政策担当秘書就任。99年福岡市役所選考採用。市長室行政経営推進担当課長、同経営補佐部長、議会事務局次長、中央区区政推進部長を務め、2013年3月定年退職。社会福祉法人暖家の丘事務長を経て、同法人理事。
香住ヶ丘6丁目3区町内会長/香住丘校区自治協議会事務局次長/&Reprentm特別顧問/防災士/一般社団法人コーチングプラットホーム 認定コーチ/全米NLP協会 マスタープラクティショナー
著書:『パブリックセクターの経済経営学』(共著、NTT出版03年)

『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』
著 者:吉村慎一
発 行:2024年7月31日
総ページ数:332
判サイズ:A5判
出 版:梓書院
https://azusashoin.shop-pro.jp/?pid=181693411

(59)
(61・終)

関連キーワード

関連記事