福岡大学名誉教授 大嶋仁
法制にも見える排外主義
日本政府は「移民」を認めず、「外国人労働者」しか認めていないと先に述べた。このことは何を意味するのか?
「外国人労働者は出稼ぎに過ぎず、決して日本社会の一員にはなれない。日本人には永久になれない」ということではないのか?
だとすれば、これまで問題にしてきた日本人の「生理的」排外主義に、政府見解が合致していることになる。日本は法制的にも排外主義なのではないかと思われる。
移民する側はそういう日本をどう見ているのか?
移民が増えつつある現在、日本は移民先として人気があるように思えるのだが、実際はそうでもないようだ。統計データによる実証を重視する移民問題専門家の永吉希久子氏によれば、日本は「移民するのが難しい国」として世界中に知られているそうだ。上記のような法制があり、国民も移民を歓迎しないのであれば、当然のことであろう。どうせ移民するなら、受け入れ体制の整っているカナダとかアメリカを好むにちがいない。
問題は多くの企業が労働力を提供してくれる外国人を必要としていることだ。「役所はなかなかそのことを理解してくれない」とは、中小企業の経営者がしばしば口にすることなのである。役所と経営者の「移民」に対する見方の隔たり。政治と経済の確執がそこにはある。
日本の法制における排外主義は、日本人が外国人と結婚する場合に端的に現れる。日本人男性が外国人女性と結婚する場合、妻となる外国人は、結婚しても日本国籍を取得できるわけではない。日本女性が外国人男性と結婚する場合も同様で、夫婦は別姓であり続け、国籍も元のままである。
もちろん、そういう外国人も「帰化申請」をすれば日本国籍を取得することはできる。しかし、その手続きは簡単ではないし、仮に日本国籍を取得したら元の国籍を放棄しなくてはならない。日本の国籍法は二重国籍を認めないのだ。
二重国籍を認めないのは、この国が「日本人」か「外国人」かの2項選択方式を採用しているからである。国としては社会を守っていることになるのだろうが、それが本当に国益となるかどうかは再考する必要がある。日本はいつまでも「日本人」だけの国でありたいのだろうか。
日本国が排外主義的であることを示す事例として、国際空港の入国審査において親と子の国籍が異なる場合を挙げることができる。長い間、国籍の異なる親子は一緒に審査されず、別々の窓口に並ばされてきたのである。
最近になってこの「風習」は改められたが、これが風習に過ぎなかったことは、それを支える法規がなかったことが示している。先進諸国にあっては、家族は家族として一緒に入国審査されるのが普通である。おそらく、日本の入管における「風習」の改正はこれに倣ってなされた。
日本人と結婚している外国人の権利が役所レベルで周知されていないことも、暗黙の排外主義によるもののようだ。外国人の年金の受け取りに関して年金事務所に相談に行くと、「外国人は受け取れません」「受け取れるのは本国に帰還するときだけです」という答えが返ってくる。
そこで弁護士に相談すると、法に照らしてそれが不適切な返答だとわかる。年金事務所の人は必ずしも差別的な態度をとっているわけではないが、年金制度は外国人を対象としないものと決め込んでおり、そのような法的根拠のない決めつけが役人の世界を支配しているようだ。
だが、ここで問題にしたいのは法制や法規ではない。それらの運用における風習であり、その根底にある「他者」への態度である。「他者」と「他人」はちがう。「他者」は自分とは異なった風習、異なった価値観の持ち主なのだ。従って、「他者」は同じ日本人のなかにもいるのだ。表向きは同じ価値観で、同じ風習に従っているようでいて、実はまったくちがう。そういう例はよくある。
「他者を尊重しろ」を言い換えれば、「自分中心に考えるな」ということである。「人間は自己中心的な存在である」とある脳科学者が言ったが、人間の脳が認識できる世界は個々の人間の身体によって限定されているという意味である。だから、人間は自然のままでは他者を侵害しかねないのである。
ところが、しばしば耳にするのは、「日本人は周囲への気配りのある民族だ」という言葉である。日本人だけが人類の例外なのか?
そうではない。日本では各人が集団の圧力に抵抗できないと感じ、己の個性が発現しないよう気をつけているのだ。ひとたびその圧力がなくなれば、抑制が効かなくなる恐れも十分ある。日本人もほかの民族同様に、自然に従順なのである。
では、人間が自然を乗り越えるにはどうしたらよいのか? 対話しかない。その対話はどうやって身につけるのか? 幼少期からの教育以外にない。子どもには、何より対話する習慣を身につけさせねばならない。対話だけが人類を救う。戦争の反対語は「平和」ではなく、「対話」であろう。
(了)








