2024年11月22日( 金 )

平和の誓いを伝え続ける使命

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(株)小笠原 代表取締役会長 重松 繁利

独自性の高い事業構築

(株)小笠原 重松 繁利 代表取締役会長<

(株)小笠原 重松 繁利 代表取締役会長

 (株)小笠原のルーツは、現在の佐賀県鹿島市で1822(文政5)年4月に飴おこしの製造販売を興したことに始まる。現在の事業の前身は、大戦後の1946(昭和21)年7月に創業した、セメント・左官材料販売の建材店である。その後、前会長の小笠原平吾氏が現在の同社の基礎をつくり、現会長の重松繁利氏が福岡市場への新規開拓を実践。現社長の小笠原正行氏が追随し、得意先を増大させた。事業展開は、建材の販売から浴室(ユニットバス)・台所水回りのシステムキッチンなどの住器納品を施工とともに受注を実践した。それらの同社の事業展開のなかで、得意先からのリクエストや問い合わせなどから、約10年の歳月を費やしてフリーユニットバス事業を立ち上げた。現在は、介護および医療関連施設を中心とした業界からのオーダーが増加中である。

 同社は、事業の中核となる業態を、時流と顧客の志向に沿い、さらに顧客の声を大切にしてつくり上げてきた。顧客目線とともに独自性の高い事業の構築にチャレンジし、顧客の課題を解決し満足度を高めることを、同社一丸で進めている。

不戦の願いを込める

 一方で、重松会長と小笠原社長は、社会貢献活動の一環として、毎年ミャンマーへ慰霊の旅を行っている。これは平吾氏が、大戦の戦没者の英霊に手を合わせるために78(昭和53)年から始めたもの。2007(平成19)年に平吾氏が天に召された後も、百代夫人と重松会長、小笠原社長がその旅を引き継ぎ、今日に至っている。生前平吾氏は「戦争は二度とごめん。平和の大切さを若い世代に語りそして伝えたい」という意志を述べている。

 平吾氏は、旧日本陸軍の菊56連隊の一員として、43(昭和18)年10月にビルマ(現・ミャンマー)戦線に参加した。当時、同戦線では連合国との激戦により、2,000人を超える兵士が命を落とした。平吾氏も左半身13カ所に銃弾を受け生死をさまよったが、九死に一生を得て日本に戻った。大戦後に、旧ビルマの首都ラングーン(現ヤンゴン)の北約500kmに位置するメイクテーラ(レインド村)に平吾氏を中心に同連隊の戦没者の慰霊碑を建立。平吾・百代夫妻は毎年その慰霊碑を訪ね、戦場で命を落とした戦友に会いに行った。また慰霊碑を管理する現地の方々への御礼として、毎年現地の小学校へ文房具やサッカーボールなどを贈っている。これは、当時で水や食料を与えてくれたビルマ人への心からの感謝の意を伝えるためであった。なお、この慰霊の旅は78(昭和53)年から今日まですべて自費で行われており、同社の事業には関わりがないことを書き加えておく。

 ただ、この慰霊の旅も、過去には40名を超える同連隊の戦友や遺族が参加していたが、年々参加者の高齢化により減少傾向にあるという。重松会長は、「平吾会長は、『戦争をしてはいけないことを戦争経験者が伝え続けなければならない』とおっしゃっていた。そのためにも戦友への慰霊を生涯続けたいという意志で、亡くなる年まで続けられた。平吾会長の永遠の平和の願いと英霊への崇高な心を我々は引き継いで、この慰霊の旅を続けていく」と述べている。

 今日でも、世界の各地で戦争が勃発し多くの人々が命を落とし、傷ついている。この慰霊の旅を行う意義とは、次世代の人々が我が国のために命を捧げた英霊を敬い、平和の尊さを学ぶことにある。今年で終戦から71年、これらのことを次世代へと語り伝えていくことが、我が国に生きる者の使命であり、同社はその実践を続けているのである。

<COMPANY INFORMATION>
(株)小笠原
代 表:小笠原 正行
所在地:福岡市博多区博多駅南6-12-25
設 立:1981年7月
資本金:2,000万円
TEL:092-431-2751
URL:http://www.ogasawara-agp.com

<プロフィール>
sigematu重松 繁利(しげまつ しげとし)
1942(昭和17)年、佐賀県生まれ。鹿島実業高校を卒業後、61年に(株)小笠原商店に入社。81年に(株)小笠原を設立し、代表取締役に就任。2007年7月、代表取締役会長に就任。趣味はゴルフ。

 

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