福岡城跡に軍司令部 空襲対策の強制疎開も
2025年は、ちょうど昭和100年にあたるとともに、終戦から80周年の節目の年である。
これまで本誌では、福岡都市圏を中心とした各エリアの歴史や開発動向などを記事として紹介してきた。そのなかで、とくに福岡都心部の歴史において大きな転換点となっているのが、太平洋戦争末期の福岡大空襲による大規模な罹災だ。大量の焼夷弾の投下によって、福岡・博多のまちは一夜にして焦土と化し、それまで建っていた建物のほとんどが焼失。やがて終戦を迎えた後、生存者らはゼロどころか、ガレキに埋もれたなかでのマイナスからの再起を余儀なくされた。その後、戦後復興期から高度経済成長期を経て、やがて福岡市は1972年4月、北九州市に次いで九州2番目の政令指定都市となった。さらに、博多駅までの新幹線開通によって都市の成長は勢いを増し、今日の福岡市は、福岡県のみならず九州を代表する都市にまで成長を遂げた。
今回は、とくに戦後復興に重点を置きながら、福岡の戦後80年を振り返ってみたい。
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まず、戦禍によって焦土と化す以前の福岡・博多のまちの状況について触れておこう。
当時の福岡・博多では、福岡県庁(現在の天神中央公園やアクロス福岡)に「九州地方総監府」が設けられており、仮に本土との連絡が途絶えても、全九州が自立して決戦体制をとることが可能となっていた。また、現在の中央区城内(旧・福岡高等裁判所跡地)には「第十六方面軍事司令部」が置かれ、大本営直結の作戦部隊として全九州を統括していた。
また1940年12月には、防空を担う「西部軍司令部」が小倉市(当時)から福岡市に移転され、42年ごろに地上2階・地下1階建のコンクリート造の防空作戦室が完成した。同作戦室には「情報表示板」「情報表示燈」が設置され、これらの通信機と通信隊員・参謀・司令官を爆撃から保護するために、壁の二重構造などの特殊な設計が施されていたという。この防空作戦室の残壁は、今も一部が残されている。さらに43年4月には、福岡城の南側にあった城外練兵場の場所に、国事や戦争殉難者の霊を祀る「福岡縣護國神社」が建立された。
福岡市内ではほかに、中央区平尾3丁目の現在は県立福岡中央高等学校になっている場所には、旧陸軍省の「福岡連隊区司令部」が置かれていたほか、中央区薬院4丁目の以前は「九電記念体育館」があった場所には、生還した特攻隊員を次の出撃まで収容および再教育していたとされる施設「振武寮(しんぶりょう)」があったという。また、中央区谷2丁目には、日清戦役以降の戦病死者等の墓として、「福岡陸軍墓地」が設置されている。さらに都心部からは離れるが、前号(vol.85)で触れたように雑餉隈エリア周辺には戦闘機や兵器を製造する工場などが集積し、戦時中の福岡市内は、軍関連の施設がそこかしこに配置されていたようだ。
一方で、45年3月頃からは、軍の命令によって民家等の建物の「強制疎開」が始まった。これは、敵襲による火の災禍を最小限にとどめるために、あらかじめ家屋密集地帯の建物を解体・撤去しておくほか、建物を疎開させた後に道路を敷設・拡幅することで、延焼を防止しようというものだ。強制疎開では、徴用された「戦時疎開作業団」が、家の柱という柱にノコを入れ、太綱で20~30人がかりで次々に引き倒していったという。こうした強制疎開は全国的に行われたといい、福岡市でも全域にわたって、約1万5,000戸が強制疎開となったとされる。そして強制疎開は、福岡大空襲当日まで続いていたという。
その強制疎開の痕跡の1つとして、博多区上呉服町にはその名も「疎開道路」という幅広の道路がある。この道路は、すぐ近くの聖福寺の延焼を防ぐことを目的として整備されたものだといい、それが功を奏したのかは定かでないが、一帯は空襲による延焼を免れたとされている。
阿鼻叫喚の恐怖の一夜 焦土と化した福博
迎えた運命の日―1945年6月19日。この日の博多湾は夕焼けで真っ赤に染まり、蒸し暑かったという。いつものように午後10時から灯火管制が始まったが、それから約30分後、突如として警戒警報のサイレンが静寂を破ったかと思えば、瞬く間に空襲警報へと変わり、けたたましい不気味な轟音が鳴り響いた。大空に交差する探照灯の光芒に照らされて、B-29爆撃機の銀翼が悪魔のように光ったという。その数、221機。須崎浜陣地(現在の那の津2丁目)の高射砲が対空砲火で敵機を追い、応戦を試みたというが、あいにく高射砲の射高が低く、命中せず。そして日本時間・午後11時11分から、焼夷弾投下が開始された。
大型・小型の焼夷弾が驟雨のように降り注ぎ、幾本もの火柱が立ち昇りながら火の手が拡大。迎撃のための友軍機は1機も飛ばず、上空をB-29が我が物顔で悠々と飛び回り、都心部をこれでもかと焼き尽くしていった。物量の連続攻撃で一帯は火の海と化し、死の恐怖に晒された人々が悲鳴を上げながら逃げ惑う、阿鼻叫喚の状況だった。この空襲は日をまたいで6月20日の午前0時53分まで約2時間にわたって続き、なすすべなく福博のまちが蹂躙された。
そして、恐怖の一夜が明けた──。東は御笠川(石堂川)から西は樋井川までの約5km、北は福岡・博多の西海岸線から南は櫛田神社前・大濠公園までの幅1.8kmの都心部・繁華街の大部分などが焼失。コンクリート造などの一部を除いたほとんどの建物が全焼して余燼がくすぶるなか、そこかしこに焼死体が散乱し、死臭が鼻をつく。かろうじて生き残った人々も、虚ろな目をして茫然と立ち尽くす、あるいは肉親を捜して悲壮な顔で焼け跡を歩いていく──まさに地獄が顕現したかのような有り様だった。
この大空襲では、実に罹災面積3,771m2、罹災戸数1万2,693戸、罹災人口6万599人という壊滅的な被害を受け、死傷者2,224人(うち死者902人、重傷者586人、軽傷者492人、行方不明者244人)という犠牲が出た。軍関係の施設をはじめ、官公庁、学校、会社、工場、商店街から一般民家に至るまで、多数の建物が被弾炎上し、交通、通信、電気、ガス、水道などの公共施設も甚大な被害を受けたほか、市民の主な交通機関であった市内電車線も大半が破壊され、都市としての機能は壊滅的な状態に陥った。
戦後の調査によれば、市内でもとりわけ奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が激しく、死傷者の9割を占めたとされる。とくにひどかったのが奈良屋校区(現在の対馬小路、須崎町、古門戸町、神屋町、奈良屋町、綱場町、下川端町など)で、総戸数1,768戸のうち、奈良屋国民学校本館以外は全焼。西を流れる博多川の川面には焼死体が流れ、街中はガレキが道路を埋め尽くしていたという。また、奈良屋校区に近接する旧十五銀行福岡支店(現在の博多座の場所)では、避難所であったことで付近住民が地下室に退避したものの、停電によって鉄扉が開かず、閉じ込められた63人が焼死するという惨事も発生している。
終戦後、まずは住宅再建 戦災復興区画整理も進行
1945年8月15日、日本の敗戦を知らせる昭和天皇の玉音放送とともに、太平洋戦争は終結した。
敗戦の現実は厳しく、とくに先の大空襲での罹災者は帰るべき家もなく、食べるものもないなかで、底知れぬ不安と焦燥に駆られ、その日その日を生きていくのがやっとの状況。そうしたなかでも人々は「まず家の獲得だ」「住居の安定だ」として、戦災復興に乗り出した。
9月4日、「罹災都市応急簡易住宅建設要綱」が閣議決定され、2分の1の国庫補助率と大蔵省預金部による低利の資金融通により、組立式の木造平屋の応急簡易住宅を年内に全国で30万戸建設する計画が動き出した。これを受けて福岡市議会は9月13日、「復興対策委員会」(後に復興委員会)を設置して、市有地での1,000戸(貸与300戸、分譲700戸)の簡易住宅建設計画を樹立。とくに被害の大きかった奈良屋校区では住宅組合が設立されるなどして、簡易住宅の供給が少しずつ進んでいった。
こうして住宅の再建が四苦八苦しながら進んでいく一方で、いち早く目覚ましい復興を遂げたのが、娯楽施設だった。なかでも、映画館や劇場は相次いで建てられ、47年初頭には22館がひしめき合っていたとされる。当時の暗い世相のなかで、これら映画館・劇場は唯一の娯楽機関として連日超満員の盛況ぶりだったという。また、喫茶店・カフェなども、バラック建ながら、雨後の筍のように氾濫していたとされる。

建立された「戦災復興記念群像」(中央区天神)
一方で、太平洋戦争で災害を受けた全国の市の復興を促進するため、国は46年9月11日に「特別都市計画法」を公布。これに基づいて福岡市では、47年1月から「戦災復興土地区画整理事業」に着手した。同事業は天神や中洲、博多部など約328.7haもの広大な中心市街地を対象に、総事業費11億9,201万円(当時)をかけて行われた25年におよぶ長期事業で、7回もの事業計画変更を経ながら10路線の都市計画道路新設や、市内電車軌道と西鉄大牟田線の移設、建物の移転、公園の整備などを実施。このときに、現在の福岡市中心部の都市基盤が整備されたといっていいだろう。
引揚港から重要港湾に~博多港の復興

45年10月、博多港が引揚援護港に指定されると、中央ふ頭が引揚者の上陸場所になった。港内の倉庫4棟・約3,360m2や事務所1棟・約117m2、土地・約5,100m2などが国に借り上げられて、引揚者の応対に当てられた。このとき迎え入れた引揚者は約139万人で、同時に朝鮮人や中国人など約50万人が博多港から出国したとされている。
47年10月には連合軍総司令部(GHQ)の日本政府に対する覚書によって貿易港に指定され、同時に海港検疫所が設置された。49年5月には米国極東海軍司令部第17掃海隊の手によって、港内の機雷の掃海が完了。同年6月に国際港として、開港安全宣言を行った。
50年6月に朝鮮戦争が勃発すると、軍需を中心とした各種物資の需要急増による国内製造業の急成長が始まり、海運業界も緊急輸送によって活況を呈した。開港安全宣言を行った博多港もにわかに活性化し、外国貿易船の姿も見られるように。また、50年5月に制定された港湾法により、それまでは国の造営物であるとの位置づけだった港が地方に委ねられることになり、51年には博多港が重要港湾に指定。52年には福岡市が博多港の港湾管理者に指定された。
新天町や寿通りなど続々と再起する商店街
先の大空襲によって福岡市の商業中心地は壊滅したが、終戦後、引揚者の上陸場所となっていた中央ふ頭付近では、帰国便待ちの小商売が次第に大きくなり、間もなく大規模なヤミ市となっていった。こうしたヤミ市は市内随所に形成され、戦後のモノ不足のなかにもかかわらず、食料や衣料品、日用品だけでなく、はては組立式簡易住宅の部材までさまざまなものが売られて隆盛を極めていたというが、一方で法外な値段での売買が横行し、健全な市場とは言い難かった。そうした状況下で悔しがっていたのが、空襲で焼け出されて店を失った博多商人らで、彼らは「ヤミ市の横行を許すな」「町に活気と笑顔を取り戻そう」と立ち上がり、商店街の再建に向けて動き出した。
いち早く誕生したのが、現在の新天町だ。45年10月には「商店街創立準備委員会」が立ち上がり、入居店舗を募集。600店が殺到し、そのなかから資金状況や業種のバランスなどが考慮され、最終的には78店舗が選び出された。起工式は45年12月22日、落成創業式は翌46年10月15日。完成した商店街の姿は、木造瓦葺きの2階建てが東西に4列、12棟の町並みだった。これが現在の新天町の始まりである。ちなみに、当初は「西日本公正商店街」という名称だったが、それでは堅苦しいということで、「新天神町」の名称を親しみやすく呼びやすく省略して「新天町」と命名された。この新天町の誕生が、天神地区の本格復興への第一歩となったといえるだろう。
一方で、博多地区でも商店街の復興が進んでいった。たとえば、戦前に「新道」という愛称で親しまれ、「一度はのぞかねば流行に遅れる」とまで言われて隆盛を誇っていたものの、空襲によって全滅した奈良屋校区の「寿通り商店街」。同商店街の復興は、46年1月頃から建設計画の策定が始まり、市や川端町などとの協議を経ながら工事が進行していった。そして47年6月に62戸で「寿通り商店街」として竣工を迎え、「昔のまま」の博多情緒を再現して復活。なお、同商店街ではその後、各戸の2階建増築やカラー舗装道路の整備なども進められたが、やがて「下川端・下川端東地区第一種市街地再開発事業」による大型複合商業施設「博多リバレイン」(99年3月開業)の誕生にともない姿を消した。現在は、リバレインの横を流れる博多川に架かる「博多ことぶき橋」に、わずかに名前の痕跡を残すのみとなっている。
ほかにも博多地区では、綱場町商店街やツナバ京極商店街、奈良屋中央市場、川端町商店街、麹屋町商店街、下新川端町商店街、川端中央商店街、上川端商店街など、数多くの商店街が復興。また、蔵本町問屋街や上洲崎町問屋街などの問屋街も形成されていった。さらに、歓楽街・中洲でも楽天地や中洲市場、新橋市場などが開業したほか、店舗や住宅など計49戸からなる東中洲南部住宅街も竣工。戦災からの復興を順次はたしていった。
(つづく)
【坂田憲治】
<参考文献>
「戦後博多復興史」(戦後博多復興史刊行会/1967年11月出版)、「福岡大空襲」(西日本新聞社/1978年6月出版)、「米軍が写した終戦直後の福岡県」(引揚げ港・博多を考える集い編集委員会/1999年11月出版)

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