俳優・仲代達矢さんが亡くなった。享年92。彼の舞台を直接観たことはない筆者にとっても、その存在は強烈だった。端的にいえば、俳優「仲代達矢」とは映像をとおして鮮烈な身体性の衝撃を伝えた俳優だった。
筆者は1950~60年代の日本映画を中心にVHSやDVDで鑑賞した世代だが、とくに時代劇物が印象に残っている。三船敏郎(1920~97年)の敵役を演じた『用心棒』(黒澤明、1961)、『上意討ち 拝領妻始末』(小林正樹、1967)などを真っ先に思い出す。
仲代達矢(生年1932年)と同世代の映画俳優というと、高倉健(1931~2014年)と勝新太郎(1931~97年)が生年が近い。ジャンルは違うが、石原裕次郎(1934~87年)も近かった。高倉健は任侠もので一世を風靡し、身体的な演技よりも沈黙と背中で倫理的な生き方を美学として語った。また、勝新太郎はコミカルな三枚目の仮面を破って表出する破天荒な演技で笑いと狂気のあわいを実現し、親しみと畏敬を見るものに抱かせた。それに対して仲代達矢はずっとニヒルだが、身体と言葉そのものの衝撃を映像に刻み付ける俳優だった。
仲代達矢ばかりでなく1950~60年代の日本映画は、黒澤映画をはじめとした色彩のないモノクロのフィルムに、人間の身体性を映像として刻み付けている。今日に至るまで「暴力」は映像表現の主要なものだが、現代の映像における暴力と、かつての映像に刻まれた暴力は、身体性の表出が変容しているように思われる。その理由の1つは、暴力性の表現が当時の俳優の身体に備わった素養に裏付けられているためと思われる。それは当時においても日常的な身体性よりはるかに洗練された身体性が表現する「暴力」だったが、それゆえに、現代から距離を置いた、様式の記憶が残る「侍」の存在に託してこそ、現実の世界と戦う人間のエネルギー表現に昇華することが可能だったのだろう。画面を通してのみ見るだけの筆者にとっても、二次元でありながらまるで異質の身体性の体験として、その鮮烈な衝撃が記憶に刻まれている。
仲代氏が亡くなった今日の世界では、グローバル化とデジタル化が進み、身体によって受け継がれる文化は急速に失われている。映像は編集可能なデータとなり、さらに生成AIの登場は現実の裏付けがない虚構の身体性を、見分けがつかないほど精巧に映像の世界にあふれさせる時代になった。そこではもはや生身の俳優の身体が、存在の場を失いつつある。
映像に刻まれているとはいえ、映像はあくまでも現実の身体性の模写・記録に過ぎない。他方で世界は、存在の場所としてデジタルの世界への依存をますます強めつつある。しかもその世界は、生成AIに席巻され、映像は現実世界の記録としての説得力を急速に失いつつある。仲代氏はまず舞台俳優として生き、その一端を映像に刻み込んだ生身の人間だった。自分の生きた証が映像コンテンツとして現代のそれよりもずっとリアルな説得力をもって生き続けようとしていることを、仲代氏自身はどのように思うだろうか。
【寺村朋輝】








