九州古代史を思う(4)
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徐福、理想郷へ
出発の季節が違ってくると、当然のことながら季節風に変化が起こり、選んだ航路は、吹く風と海流に順応し、いくつかの航路に分かれる。これは後の遣唐使が、帰国時の航路として、「北路」と「南路」として使用している。
<北路とは>
夏季に吹く南風に乗って山東省の海岸に沿って北上し、成山付近に達し、そこで風待ちして順風を得て一気に黄海を横切り、朝鮮半島の西岸に進み、そこから南下して済州島を経由し九州の西岸に達するか、対馬・壱岐を経由して九州北岸に達する。<南路とは>
冬季に発生する西高東低の気象配置から起こる北・北西の強烈な風を利用し、一旦南下して揚子江沖あたりから東に転じ、黒潮の分流の対馬海流を利用し九州西岸に達する。この場合、黒潮本流に乗ると紀伊半島とか前述の各地に達することとなる。徐福は、何度も下調べに行ったと述べた。また方士として、徐福は天体航海術をも身につけていただろう、彼は、自分の国を建国することを計画しているのだから、当然、自分が直接引率する船団の人員配置・職工・食料荷物などの準備は怠りなく行い、万全の体制で出航に至ったことだろう。
当然のことながら、この船団でも数十隻の数になったと想像される。この船団だけは安全に目的地まで誘導しなければならない。だから彼は、安全度が高い「北路」の夏季航路を採り、済州島から長崎の五島列島を目指して南下したと思われる。
徐福は、秦の始皇帝の暴政から逃れて、東方海上の緑豊な島国に理想郷をつくることを意図して諸々の調査を行った。大集団の食糧を得るためには広い平野が必要であり、温暖でとくに冬季の季節風をさえぎる山脈の存在や、稲作に絶対欠かせない“水”が豊富であること――。これらのことは、事前に何度も調査を行わないとわからないことである。
彼は、気候や風土が中国江南地方と類似し、大集団の食糧を得るための平野、山脈、水、これらの条件をそろえた“理想の地”をついに見つけた。そのためには、命をかけて始皇帝との問答に打ち勝つ努力をした。
前面には筑後川を基幹とした水溝が縦横に走り、背後には緑豊な背振山脈を持ち、稲作に適した平野が広がり、しかもさらにその先には豊富な潟の水産物を提供する有明海。
この平原広沢こそ、「佐賀平野・吉野ヶ里」と確信する。
(つづく)
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