九州古代史を思う(6)
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「漢倭奴國」の金印授受
「後漢書」には、西暦57年、倭奴國から貢物を持った使者に時の皇帝光武が金印を賜ったとある。「漢の倭の奴の国王」。漢の印制度では、玉・金・銀・銅・の順位で使用され、当時の印鑑は紙に朱肉を使って押印した物ではなく(当時は紙などないため)文書は簡札(木簡・竹簡)に書き簡札の束を紐で巻き、紐の結び目に粘土で封泥をし、柔らかいうちに印を押し付け、受け取った者は封印を切って読んでいた。印綬は紐を通して衣服に付け身分権威の証とした。
この金印の解釈を定着させたのは、明治新政府である。すなわち、漢の属国である倭國の中の奴國の国王に金印を授受する、と。根本的にこの時点で、奴國とされる九州北部が倭國の出先機関の扱いに、大いに疑問とする処である。
世界中の中心であると自負し、国の命名も「中国」と称する国の国王が、「倭國の中の小国」に金印を授けるわけがない。このような、でっち上げのような解釈をさせ、近畿大和の主流性を提唱する文部科学省、並びに宮内庁の「天皇家の万世一系」のやり方に疑義を呈したい。
皇帝が使用するのは玉で、王侯や周辺の属国の国王は金印、以下の士・大夫が銀、その下は銀と区別され、漢の皇帝が自国の諸侯なみの者にふさわしい金印を授与したのは、倭國の中の一小国の奴國などではなく、当然、倭國全体を統括している主権者に与えられたと解釈するのが妥当ではないだろうか。
読み方は、“漢の属国である倭奴國王に金印を授ける”で、倭と奴の間に“の”を入れるのと入れないのとでは、根本的な解釈の相違が生じる。北部九州王朝が出先機関とされているのが現在の日本史である。
中国、「二十四史国書」
中国にはそれぞれの時代の出来事を次の代の書史が記す、二四史の正史国書があり、これらは主観を入れず客観的な観点から前世の史実のみを記した書物である。
徐福の子孫達が、水利権がもとで部落同士が相争う事を阻止できなかった時に、シャーマンとして登場するのが「卑弥呼」である。「卑弥呼」を立て、すべての事に対して占いを信じる様になり、ようやく国が落ち着き、中国への使者を遣わすようになる。
陳寿の「三国志」「倭人伝」に西暦238年、「卑弥呼使者を遣わす、当時の魏の皇帝(明帝)より、『親魏倭王』の金印を授かる」と記してある。卑弥呼の金印は現在まで発見されておらず、この金印が陽の目を見たら古代歴史が、一変する重大事になることは間違いない。
(つづく)
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