九州古代史を思う(10)
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前に述べた、開皇20年(西暦600年)国書を携え訪中した使者が言う「俀王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴きかふして坐し、日出づれば云々…」を、実在しない聖徳太子の所作と演出した大和朝廷。
大宰府市において、現在も周辺の発掘調査が行われているが、新らたに発見されても、現代の文部科学省は、大和朝廷の出先機関である筑紫地方のナニナニで片づけられるのがオチであろう。
古代九州王朝である「倭奴國」の文化材・歴史書などの文献を、すべて抹消・焼き尽くし、七世紀までは、文明・文字さえないとする日本の古代史を、自分達の都合が良いように、あたかも古くから日本列島唯一の覇権者であったかのごとき歴史書を作成する、それが大和朝廷のやり方であり、その書物が「日本書紀」「古事記」であり、これらを支持続けているは、明治以降の政府中央官庁である。
しかしながら、政庁跡・都府楼跡・水城跡・観世音是寺・太宰府遺溝などなど、拭い去る事ができない物が、歴然と現存する。
「沖ノ島」が古代神事の集積とされる由縁は多数の文化財が発見されたからだが、このような小さな島、催事などを執り行う場所さえない狭小の島で何ができようか、また志賀島は、現代においてこそ「橋」で陸続きになっているが、古代においては満潮時には「島」である。大宰府から搬出された文化財などを「沖ノ島」に集積する過程に、「志賀島」を「玄海島」の方から回り込むのが通常航路だが、博多湾から現在の「海の中道」を直進すれば近道だけど、干満にて座礁する恐れが生じ、「金印」が「志賀島」で発掘された事も辻褄が合う。
私は思う。この「日本書紀」「古事記」の「紀」と「記」を参考に古代日本を解読しようとすれば、必ず誤った古代史を学ぶ事になると。
日本国歌「君が代」と「海行かば」について次回に記す。(つづく)
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