2024年11月28日( 木 )

九州古代史を思う(11)

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sea9min 711年頃、日本史は大きな転換期をむかえる。それは、白村江の戦い(663年)で、決定的なダメージを受けて敗走した北部九州王朝倭国の滅亡であり、新たなる国“日本”の近畿天皇家による筑紫の支配の始まりを意味する。世界遺産にも指定されている「法隆寺西院伽藍・金堂・五重塔・中門・回廊」は、筑紫大宰府・観世音寺を解体・移築したものだと結論される建築家も多数存在することも、その証左であろう。

 軍歌「海行かば」の歌詞は、七四九年「続日本紀」で大伴家持の詠んだ歌、「海ゆかば みずくかばね 山ゆかば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」から採ったもの。この歌は大伴家代々に伝わる伝承を家持によって、ようやく世に出すことができた歌詞である。
 この大伴家は代々、大君の側でともに海に山に戦い続けた家柄であり、死ぬ時は大君の傍らで、戦場で死ぬのだ、顧みはしないと。そんな覚悟を表す歌詞で、大伴一族が先祖代々、歌い続けた歌である。とすれば、「大君」も先祖代々海に山に戦い続けた王者でなければならない。しかし、歴代の近畿天皇家には海に山に戦い続けた天皇はいない。大和朝廷に「水軍」はなかった。よって、「水軍を持たなかった大和朝廷には、この歌は作れなかった」ということができるだろう。

 万世一系と唱える近畿天皇家の家系が、武烈天皇と継体天皇との間で断絶している事は明らかである。いみじくも任申の乱で、天智天皇の子の大友皇子と、天智の弟の大海人皇子(後の天武天皇)との皇位継承争いで「日本書紀」天武元年条によれば、大海人皇子に味方した大伴連馬来田は「この時にあたりて、病を称して、倭の家に退りぬ。」という行動をとっている。形勢が判らない時は仮病を使い、家に閉じこもり、優勢を見極めて行動を起こす。こうした「機を見るに敏」的な、近畿天皇家のありようは、己を顧みずに戦おうという「海ゆかば」の思想性とは、天地ほどの隔たりがある。

「倭王武の“上奏文”」

 五世紀「倭の五王」として、九州王朝の王の名前が、中国史書「宋書」の倭人伝などに記されている。その中の一人、倭王武が中国に送った書が「宋書倭人伝」に「倭王武」の「上奏文」として残っている、次にその口語訳を紹介する。


 中国から倭王の任命を受けてきたわが国は、はるかかたよった遠いところにあり、地方を鎮めて天子の守りとなる国となってまいりました。昔より、私の先祖の倭王は、みずから甲や鎧を身に付け、山川を駆け巡り、安らかなところとてないありさまでした。東のかた、毛人の五十五国を征伐し、西のかた、衆夷の六十六国を帰服させ、さらに海を渡り、海北韓地を平らげました。中国の天子が天下を統治する道は和らぎ、かつゆったりとしています。
 わが祖先は、天子の配下の国として、その統治領域をひろげ、畿からはるかなるところまで天子の威令が及ぶように致しました。そして、各王朝代々の天子に拝謁し、朝貢の歳をたがえる事はありませんでした。

 臣下であるわたしは、至って愚かな者ですが、先祖の偉業を受け継ぎ、馬を駆って統一した国々を率い、自然の大道に帰し、これをあがめています。道は、はるか百済のかなたに連なり、武装して軍船を整えてまいりました。
 しかるに、高句麗はその大道を失い、楽浪・帯方郡から百済に至る辺鏡の民を奴隷としてかすめとり、殺害して止む事がありません。わたしの亡き父済は、天子の領域への道をさえぎりとどめているのをいきどおり、兵士百万を率い大挙して出発しようとした時に、父兄を共に失う事となり、為にすでに完成しようとしていた高句麗遠征の成功寸前で挫折せざるを得ませんでした。今、いよいよ甲や兵器を鍛え整え、無念の中に没した父兄の志を再び実現させようと思います。
 天子の先陣として正義の士である虎奮の士として、功をたて、白刃が眼前に切りむすばれるときも、危険など顧みないつもりです。


 原文は漢文で、倭王武が自らの王朝の発展史とこれからの高句麗征伐への決意を述べたものだ。これらの主張するところによれば、倭王武の王朝は、連綿と継続した歴史を持ち、倭王自らが最前線に立ち、東に西に戦い、しかも北へは海を渡って戦う水軍を持ち得ていた軍事国家であった事は疑いのないことである。

 「海ゆかば」の歌詞が表現する「大君」は先祖代々、海に山に戦い続ける大君であった。その大君に仕えてきた軍事氏族「大伴氏」が歌い続けた「海ゆかば水浸く屍、山行かば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ、顧ずはせじ」は常に最前線で戦ってきた歴代倭王への奏上歌だったことがわかる。

(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】

 
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