2024年12月18日( 水 )

乗っ取られた昭和自動車!?(5・終)~金子道雄氏と青木家との確執は?

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 これまで紹介してきたように、故・金子道雄氏は昭和自動車(株)をはじめとした「昭和グループ」の創始者であり、先見の明と行動力によりグループを拡大させてきた最大の功労者。また、後には唐津市長を3期12年務め、在任中には唐津城天守閣を建設するなど、唐津市の発展にも貢献した人物である。数々の偉業を持つ、佐賀・唐津を代表する傑物と言っても過言ではない。
 だが、そうした偉業の陰で、実態がないと思われる新株発行を行うなどして、大恩あるはずの創業家・青木家から昭和自動車の支配権を奪取し、その後、役員体制を自身の身内や部下らで固め、青木家を追い出したのではないか――という疑惑を、この連載で追究してきた。

syouwa もちろん、金子道雄氏の傑出した先見の明や行動力、そして胆力なくしては、今日の昭和自動車および昭和グループはなかったに違いない。とはいえ、終戦間もないゴタゴタした時期に、強引な手法によって“乗っ取り”とも思われる行為を行ったこと自体は、決して許されるものではない。

 なぜ金子道雄氏は、このように強引な手法を用いてまで、昭和自動車の支配権を青木家から奪おうとしたのだろうか――。

 1967年に初版が発行された、金子道雄氏の生き様について書かれた書籍「わが道に生きる」(著者:山口真志郎、発刊者:昭和自動車株式会社)のなかに、次のような記述がある。

 彼が全権を担って二年後、波乱をふくむ行く手に、大きく立ちふさがったのがこの昭和自動車の買収問題であった。
 これが、現在の昭和自動車の基礎になるのである。がこの買収問題に当っては彼は青木一族の猛反対を押し切っての断行であった。彼は青木の責任者とはいえ所詮、一介の番頭に過ぎない。
 「一介の番頭が、えりもえって、ズブの素人のバス事業に手を出すなんて、図に乗るのもはなはだしい、それよりも先代の築いた鉄鋼の仕事を忠実に運営してくれれば、それでいゝのに――」などという、青木未亡人ほか当時大学生であった子息の意見と、若い実力者である彼に対する周囲のネタミが、この時とばかり一斉に集中したのである。

 四面楚歌の波乱を一蹴するや、彼は昭和自動車の事実上の経営権を一手に握って、スタートしたのである。これからの道が、決して平坦でないことを覚悟の前で……
 ふりかえっても見よ。もし彼が、バス事業に対する着眼をあやまり、あたら挫折の悲劇を生んだとしたならば、世間は何といって、彼をなじることか。
 「思い上り者」「主人を袖にした叛逆児」「恩知らずの大悪人」――
 敗ければ賊軍とよくいわれるが、事業を志向する誰もが背負う、きびしい世間の評価がこれである。

 ここからは、金子道雄氏が猛反対した青木家を押し切り、昭和自動車の買収を断行した旨が読み取れる。金子道雄氏の胸中に「買収の際に猛反対していたのだから、昭和自動車に関して青木家は口を出すな」「昭和自動車は俺の会社だ」――というような思いがあったかどうかは定かではない。だが、この時点で、昭和自動車をめぐっての金子道雄氏と青木家との確執が生まれたであろうことは、想像に難くない。

 ほかに「わが道に生きる」のなかには、青木洋鉄商店時代に番頭であった金子道雄氏が、若社長(当時、大学を出て間もない、榮藏氏の子息である省二郎氏)を同道して資金調達のために取引銀行を訪れた際のエピソードも記されている。そのとき、銀行の担当者は若社長を別室に残して、番頭であった道雄氏の頼みを無下に却下。そのときの心情が、こう綴られている。

 「このあと……肩書きだけの若主人を相手に、銀行はどんな話し合いをするつもりなのか?……オレが番頭だから信用がおけなければ、何もわからぬものでも、社長であれば信用する――それが銀行の態度であろうか?」

 このとき金子道雄氏の胸中には、おそらく「榮藏氏の教えを誰よりも受け継いでいるのは、肩書きだけの若主人ではなく自分だ」――というような思いがよぎり、「このまま番頭の地位に甘んじていてたまるものか」といった野心が首をもたげたのではないだろうか。そうして、自らがトップの座に就く機会を虎視眈々とうかがっていたところ、めぐってきたチャンスが、増資と新株発行による昭和自動車の“乗っ取り”だったのではないか――。

 前出の「わが道に生きる」のなかには、金子道雄氏にとって人生の恩人とも言える青木榮藏氏が他界したときの下りのなかで、次のような記述がある。

 主人の死を、彼は誰よりも悲しみなげいたことか。
 彼が間もなく支配人となり、昭和自動車の経営に乗り出して、爾来三十年間、今日に至るまで、一日としてこの青木栄蔵のことを忘れることはなかった。
 先年、青木老夫人が他界するまでの長い年月、陰に陽に夫人を始め、没落した主家の生活の面倒をみつゞけてきたことを知る人は少ない。

 この記述からは、金子道雄氏が青木家から受けた恩を忘れず、昭和自動車の支配権を奪取した後も、青木家とは良好な関係を保っていたかのように受け取れる。
 だが、金子道雄氏が昭和自動車の支配権を青木家より奪取して以降、青木家が昭和自動車に関与していたという形跡は見られない。また青木家親族のA氏は、「金子道雄からは何一つ恩を受けた覚えはない」「省二郎および良祐は生前、『本来、昭和自動車は青木一族がつくったものであるのに、急に金子道雄に支配権を取られたのはおかしい』と不満を言っていた」と主張している。

 金子道雄氏と青木家との、その後の関係性をめぐるそれぞれの主張には食い違いが見られるが、すでに当事者は鬼籍に入っており、当時のいきさつを詳しく知る者はほとんどいない。そのため、その後の金子道雄氏と青木家との関係性に関する、真相についてはわからない。だが現実問題として、青木家のA氏は昭和自動車を訴えるに至っている。これをどう捉えるべきか。

 なお、今回の訴訟の件について昭和自動車の見解を確認すべく取材を申し入れたものの、「現在係争中につき、何もお話できない」との回答だった。

 A氏が昭和自動車を相手取って行っている訴訟「株主権確認訴訟」ならびに「新株発行不存在確認訴訟」は、現在も審尋中である。新たな動きがあり次第、続報を報じていきたい。

(了)
【坂田 憲治】

 
(4)

関連記事