イラン攻撃で世界秩序は変わるか(7)国際法は不要~「絵に描いたミカエル」と神の正義~

画家・劇団エーテル主宰 中島淳一

 1975年、アメリカ留学中に出会った一人のベトナム帰還兵の言葉が、いまなお私の内に響き続けている。

「広島と長崎に原爆を落としたのは誤りだった。アメリカは取り返しのつかない罪を犯した」

 彼はそう言って、静かに頭を下げた。そして続けた。

「権力者たちは容易に大量殺人を決断する。だが彼らは戦場の地獄を知らない。まるで天界の住人のようだ」

 この「天界の住人」という言葉は、単なる比喩ではない。それは、人間が自らを神の位置に置くときに起こる、倫理の断絶を示している。

イメージ    旧約・新約において、大天使ミカエルは神の軍勢の長として描かれる。彼はサタンと戦い、秩序を守り、神の正義を体現する存在である。しかし重要なのは、ミカエルは決して自らの意志で剣を振るうのではなく、あくまで神の意志の執行者であるという点である。すなわち、正義とは人間の所有物ではなく、神に属するものということだ。

 この神学的前提に立つとき、現代の国際政治が抱える問題は、極めて深い意味を帯びてくる。近年、ドナルド・トランプが「国際法は不要である」と受け取られかねない発言を行った背景には、単なる政治的戦略を超えた、ある種の神学的逸脱が潜んでいるように思われる。彼の言葉の核心には、「最終的な判断は自らの意志にある」という認識がある。すなわち、外部の法や規範ではなく、自らの判断こそが正義を決定するという立場である。これは一見、主権国家の自律性を強調する現実主義的な立場に見える。しかし神学的に見れば、それは人間が神の位置に立とうとする、いわば「現代の原罪」とも言うべき姿である。

 本来、国際法とは何か。それは単なる条文の集積ではない。それは、人類が神の正義を模倣しようとする試み、すなわち「地上における秩序の写像」である。完全ではないにせよ、そこには「殺してはならない」「侵してはならない」という根源的な倫理が刻まれている。しかしその法は、決定的に不完全である。強制力を持たず、しばしば破られ、踏みにじられる。この不完全性ゆえに、国際法はしばしば嘲笑される。「絵に描いた餅」に過ぎない、と。

 だがここで、もう一度ミカエルの像に立ち返る必要がある。教会の天井に描かれたミカエルは、確かに現実の戦場には降りてこない。その剣は、実際に敵を斬ることはない。だがそれでも人はミカエルを描き続ける。なぜなら、その像があることで、人間は「正義とは何か」を忘れずにいられるからである。

 国際法とは、まさにそのような存在ではないだろうか。それは現実の力を持たない。だが、それが存在することによって、人間は自らの行為を裁く基準を持つ。もしこの基準すら失われるならば、世界は完全に「力」の論理に支配されることになる。そこでは強者の行為は常に正当化され、弱者の苦しみは沈黙の中に消えていく。トランプの発言は、この「基準」そのものを相対化するものである。国際法を不公平な拘束と見なし、それを乗り越えることを正当化する態度は、ミカエルの剣を自らの手に奪い取る行為に等しい。

 しかし、人間がミカエルになろうとするとき、そこに生まれるのは正義ではなく、しばしば暴力である。なぜなら、人間は全体を見渡す存在ではないからだ。神の視座を持たぬ者が神の裁きを行うとき、その判断は必然的に偏り、欲望と恐怖に歪められる。そこにおいて「正義」はしばしば、自己正当化の仮面となる。

 ゆえに、国際法の不完全性は、その価値を否定する理由にはならない。むしろその不完全性こそが、人間が神ではないという事実を証明している。国際法は、我々が神になりきることを防ぐ、最後の抑制装置なのである。

 冒頭の帰還兵の言葉に戻るならば、彼が見たのは、まさにこの断絶であった。戦場の現実と、決断を下す権力者との間に横たわる深い裂け目。その裂け目こそが、人間が神の座に近づきすぎたときに生まれる悲劇なのである。国際法は、確かに「絵に描いたミカエル」に過ぎないのかもしれない。だが、人間が完全なミカエルになれない以上、その「像」は不可欠である。それは我々に問い続ける。

「──お前は神なのか、それとも人間なのか」

 この問いを失ったとき、世界は沈黙の中で崩壊を始めるだろう。ゆえに我々は、不完全であってもなお、ミカエルを描き続けなければならないのである。

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