『創業の原点に返れ』飯田建設と福岡・九州の土木の歩み(3)
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新生飯田建設の誕生
昭和40年代に入り、飯田敏弘代表は組織の足元固めに着手した。終戦から20年が経ち、10年を1サイクルと見れば、第1期は復興期、第2期は高度成長期、そして昭和40年代からは成熟期になると目されていた。しかし当時の日本経済は、物価の上昇、企業の自己資本過少、社会資本の不足、中小企業と農業の立ち遅れ、若年層の労働者不足など過去の急速な経済と景気の躍進による反動から、金融引き締めなどが実施され、企業倒産が多発するような不況下にあったという。そのような状況下の1965年の政府の公共事業の予算は6,920億円。特色として治山、治水、港湾、下水道の5カ年計画があった。
九州地方では、九州のインフラの大きな目玉となる九州縦貫高速自動車道の調査費要求の承認をはじめ、国道210号線(別府〜久留米)が直轄となり、事業費14億3,000万円が認められる、筑後川と大淀川が一級河川指定となり、水資源による水系指定と同時に総合開発の体制が整うなど、飯田産業の事業にとって期待が持てる流れとなってきた。
明るい状況ではあったが、飯田代表は甘い見通しを持つことなく足元を固めるマネジメントを行った。その代表的な行動が、経営理念=企業理念、そして社是の制定だった。まずは、65年3月に経営理念=企業理念を定めた。
1.我社は顧客に喜ばれる仕事を通じ会社の発展と繁栄を期する
2.我社は会社の繁栄と従業員の幸福が常に一致する経営を行う
3.我社は創業時の開拓者精神に徹し日々前進するさらに、67年6月に経営理念をもとにして、社是を制定した。
1.顧客の満足 我社の繁栄
2.会社の繁栄 社員の幸福
3.未来に挑む開拓者精神経営理念と社是を明確化したことで、同社組織の足元は固まり、より全社一丸となった事業展開が行われることとなった。65年12月13日に飯田産業の土木部が分離独立し、飯田土木(株)が設立された。設立当初は資本金1,000万円、66年1月13日に増資し、資本金2,000万円となった。そして、67年1月1日に飯田建設(株)に商号変更。この商号変更は、土木から総合建設業への挑戦を鮮明にしたものである。道路舗装、緑化分野の関連会社を設立するなど、経営の多角化を推進した時期であった。
港湾工事で技術開発力向上
また、この時期に港湾分野への積極的な進出を行い、新たなビジネスチャンスを得ることとなった。これは亀甲ブロック工法発明者である嶋田長彦氏との縁によるものである(67年8月12日に嶋田氏が特許取得)。67年に博多港開発(株)の伊崎浦船留防波堤工事の施工を実現させ、68年1月に嶋田氏と同工法を相互に拡販することで合意し、同社が専用実施権を持つ契約を交わした。69年には箱崎外防波堤工事を受注。社内に港湾部を設けて営業体制を強化し、福岡県内での同工法の実績を重ね、九州から中国、近畿地方、千葉県・茨城県までの広範囲で同工法を広めていった。しかし、72年に担当の幹部とスタッフが突然退職したことで、新規受注を行えなくなった。また、特許が特許工法として出願されていなかったことで、亀甲ブロックに似た新たな改良工法が出現、普及していった。それでも同社の港湾分野への進出によって、福岡県をはじめとした防波堤工事の技術は進化したといえる。その功績は大きい。
(つづく)
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