2024年12月23日( 月 )

『創業の原点に返れ』飯田建設と福岡・九州の土木の歩み(5)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

創業者の逝去と飯田産業の破綻

 これまで4回にわたり飯田建設と同社グループの歩みを綴ってきた。平成に入っても総合建設業として福岡および九州各地を中心に実績を積み上げた。創業以来の工事履歴は、このスペースでは語りつくせないほどの数となる。時代の流れとともに、各地域の発展のために貢献してきた同社とグループ会社。とくに飯田建設は、ピーク時の売上高は約50億円。「土木業だけで50億円の売上高。福岡市内に名だたる土木業の企業がありましたが、常にベスト10圏内の実績は残してきました」(吉原氏)

 数多くの輝かしい実績だけでなく、多くの苦難もあった。1990年5月15日に創業者の飯田敏弘氏が逝去。その失意のなか、同社グループの中核であった飯田産業が同年12月19日に破綻した。当時飯田建設の副社長であった吉原氏は多くは語らないが、遡って同年11月に(株)共和の破綻で約20億円の債権が回収不能となった。その後、あらゆる手立てを講じたが万策尽きた。当時グループ全体7社で年商400億円と400名の社員を抱えていた。「飯田産業は売上約300億円、社員200名というグループの扇の要でした。当然ながら飯田建設を含めた関連会社も破綻するとの風評が流れて、毎日地獄でした。その苦難のなかでも、創業者の飯田敏弘の“創業の原点に返れ“の言葉を心に刻み、立ち向かいました。飯田産業を含めた3社は破綻しましたが、飯田建設を含めた4社は生き残りました。官公庁からの工事指名はゼロ、社員20名の退職、取引先からは現金取引の要求など厳しい状況で夜も眠れませんでした。副社長の自分が先頭に立ってやるしかありませんでした。91年4月を迎えて、倒産の風評も沈静化し、工事指名も回復してきました。同年7月26日に私が飯田建設の代表取締役社長に就任いたしました。53歳でした。その後事業も徐々に上昇し、96年4月に新社屋を落成させることができました。そして売上高もピーク時と同じ規模の50億円に回復し、配当10%、無借金の経営を実現できました」と吉原氏は当時を思い返す。再建までの立て直しについて、吉原氏は「いろいろ手を打ちました」とのみ答えた。関係者は、「詳しくは話せないが、まさに命がけで飯田グループを再建させた。創業者の高い志を引き継ぎ、誠実に経営の舵取りを行っていた」と吉原氏を評する。また、代表就任時に全社員の家族宛に誠実な挨拶状を送ったことも付け加えておく。

創業の心を継いでいく

 単独での経営が困難と判断し、事業の継承先を探したのも吉原氏であった。吉原氏の体は病魔におかされていた。ここでも命がけであった。「創業者の飯田敏弘の信念を誠実に引き継いでいただける事業者を探しました。それがサンコービルドさんでした。サンコービルドさんには1+1=3になるような経営、すなわちお互いがプラスになるだけでなく、相乗効果が生まれることを希望いたしました」(吉原氏)。

 崖っぷちに立たされても見事に再建した飯田建設。それは、飯田敏弘氏の信念を引き継ぎ、先頭に立って貫徹した吉原前代表と、一緒に汗水流した仲間が懸命になって働いた結果である。これからも同社の創業の心は永遠に引き継がれていく。

(了)
【河原 清明】

 
(中)

関連キーワード

関連記事