埋もれてはならない歴史がある 『忘却の引揚げ史 泉靖一と二日市保養所』
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本書『忘却の引揚げ史 泉靖一と二日市保養所』(下川正晴著/弦書房)は、日本が忘れてしまった70年前の「引揚げ」という国民的体験に、現代から光を当てようという試みである。
国民的体験とは、得てして悲劇を意味する。
あるいは多様な民族が入り混じって暮らしていた国が、一夜にしてお互いが殺し合う地獄に変わる。あるいはそれまで暮らしてきた土地を大国の都合で奪われ、血みどろの戦争が始まる。またあるいは、独裁者に煽られるまま周辺国に侵略を繰り返し、ついに国土を踏みにじられて分割され、数十年にわたる分断の歴史を歩む。多くの人々が住まいや生活、そして命そのものを喪失する体験は、その悲惨さゆえに長く国民の脳裏に留まる経験となる。
冷戦後の旧ユーゴスラビア内戦、第二次大戦後のイスラエル建国とそれにまつわる戦乱、ヒトラーによって引き起こされた第二次大戦とドイツが直面した敗戦。
これらの「国民的体験」は、それまで当たり前にあった暮らしを否応なく奪い、生活を破壊し、今も人々のひとつの原体験として残り続けている。これは、いわば20世紀のディアスポラ(国民離散)である。第二次大戦に敗れた日本もまた、この巨大な「国民的体験」に直面した。「引揚げ」だ。
現在40代以下の方々にはほとんどなじみのない言葉であろうから、簡単に解説する。1945年までの日本人は、アジアの幅広い地域に生活の拠点を築いていた。1895年の台湾併合、1910年の韓国併合、19年の南洋諸島委任統治開始、さらに1931年の満蒙開拓義勇団の発足や翌32年の満州国建国など、大日本帝国はさまざまな手段で勢力範囲を拡大していた。これに従って、当時の日本人たちは海外に新たな生活の場を求めて移住を進めていく。特に中国大陸には、「大陸浪人」と称して一旗揚げようとたくらむ壮士たちや、国策に従って村ごと開拓団として移民する例もあった。また41年の太平洋戦争開戦後、東南アジアを次々に占領した日本軍を追うように、多くの民間人がシンガポール、ベトナム、マレーシア、フィリピンなど各地に進出した。45年の敗戦時には、軍民併せて600万人を越える日本人が国外にいたという。
日本は敗戦によって海外領土を喪失。国外にいた日本人は帰国することになるのだが、この道のりはまさに茨の道であった。
「帰国」という言葉を軽々に使ったが、特にソ連軍が侵攻してきた地域では民間人も戦闘に巻き込まれた。満州での民間人犠牲者は24万人を超え、これは沖縄戦や広島への原爆投下による犠牲者よりも多い。生き残った人々も捕虜として収容所に拘束され、兵士たちは繰り返し女性たちを強姦した。ようやく解放されて日本の地を踏むときには、望まぬ妊娠をしていた女性もまた数多くいたのである。この悲痛な経験は、本書にも当事者の発言を引用する形で何度も登場する。
性暴行被害を受け、妊娠した女性たちに中絶手術と治療を施したのが、現在の筑紫野市にあった二日市保養所である。本書は、この保養所と、その創立者である人類学者・泉靖一の軌跡を軸に、私たちが置き捨てたまま忘れてしまった「引揚げ」という巨大な国民的体験を、再び掘り起こそうとしている。
沖縄戦、広島・長崎の原爆投下、東京大空襲。かつての戦争を語ろうとするとき、これ以外のキーワードが使われることがどれだけあるだろうか。従軍慰安婦問題、南京大虐殺など「加害者としての日本」が語られることは多いが、当時の日本人が「国民的体験」として直面した、「600万人の引揚げ」はなぜ語られないのか。「なぜ、引き揚げ研究か。」一息ついて、彼(編注:全京秀教授)は言った。「この引揚げ研究を今、日本では誰もしていません。これはちょっと不思議だと思います」。私たちはどうして、この苦言を外国人教授の口から聞かねばならないのか。
私たちは、この下川氏の苦衷を共に背負わなければならない。それが、日本の現代を生きる私たちの責務だ。
【深水 央】
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