福岡大学名誉教授 大嶋仁
生命と機械に共通する自己制御
サイバネティックスを考案したウィーナーは、動物と機械のシステム比較を行った最初の人かもしれない。彼が見つけたのは、どちらのシステムも自己制御装置、すなわちフィードバック機能を備えているということだ。機械が故障すればノイズが発生するように、動物のシステム障害は病気となって表れると見てとった。
たとえば私たちが風邪をひくと、熱が出る。発熱は病気の症状ではあるが、これによって身体の免疫力が向上するのである。つまり、発熱は身体システムの障害に対する自己制御機能の発動を意味するのである。同様の機能は機械システムにも備わっているべきもので、これがないとその機械は役に立たない。機械は常に身体をモデルに改善されてきた。
デカルトは身体を機械であると見た哲学者であるが、その見方が近代医学に伝授されてきたとはいえ、サイバネティックスの立場からは全面否定される。人間の脳も身体システムの一部であるからには、脳によって身体全体を測ることはできないのである。
チューリング・マシンを考えたチューリングも、自らが考案した計算機の知能テストを行っており、計算機を人間の脳になぞらえていた。つまり、ウィーナーにしてもチューリングにしても、基準は常に人間であり、その脳だったのである。彼らは機械を研究すればするほど、そのモデルとしての生体にも関心を払ったのである。
人知を超えた力を求めた時代
ところで、チューリングがコンピューターの原型となる計算機を思いついたのは1930年代のことである。同じころドイツでは、オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーが原子核の分裂による高エネルギーの放射を発見している。核兵器や原子力発電の原理を発見したのである。このことを単なる偶然と見るべきか、それとも歴史の必然と見るべきか、意見は分かれよう。
私見では、チューリングやハーンやマイトナーの個人的意図はどうあれ、当時のヨーロッパが「人力」あるいは「人知」を超えた高次の力を求めていた。チューリングやハーンやマイトナーは、そういう時代の要請に応えようとしたのである。科学史の流れはトーマス・クーンが指摘したように、社会史や政治史の流れと無関係ではない。
なお、当時の諸発見が今日の文明のもとになっていることはいうまでもない。人類はそのころから今に至るまで、人間が制御できないほどの巨大な力を開発する道をまっしぐらに突っ走ってきたのである。今日のAIも、そうした探求の到達点の1つと見ることができる。
AIのこの進化がすばらしいか、恐ろしいか、その答えを私たちは性急に知りたがるが、その前に人間の脳とAIのどこが異なるのかを明確にしておかねばならない。
エルサッサーが見抜いた脳の能力
ウィーナーがサイバネティックスを提唱した1940年代の後半、アメリカではウォルター・エルサッサーという物理学者がコンピューターと人間の脳との比較研究をし、数学的に証明できる範囲で、人間の脳のほうがコンピューターよりはるかに優秀だという結論を出していた。彼は地磁気の原理を解明した物理学者であり、システム生物学の発展に寄与したことでも知られているが、そのコンピューター哲学はほとんど知られていない。もともと原子物理学者だった彼は、数理を超えた世界として生命の世界があるということを、数理的に説明しようと思い立った稀有な人である。
彼のドイツ時代の同僚であったエルヴィン・シュレーディンガーは、生命を物理学的に解明できると考えていたようだが、エルサッサーはその方法には限界があることを早くに認識していた。ただし彼は神秘主義的な生命論に組みすることはなく、あくまでも物理学者の立場で生物物理学の限界を指摘し、今日いうところの「システム生物学」の道を拓いたのである。
エルサッサーが原子物理学から生物学へと方向転換した背景には、彼が中高時代に培った人文主義がある。今日の科学者がはたしてどれほどの人文主義的教養をもっているだろう。C・P・スノーが言ったように、第二次世界大戦のもたらした知的悲劇の1つは、人文主義と自然科学という「2つの文化」が完全に袂を分かってしまったことなのである。この現状はもはや「悲劇」とすら見なされていない。
脳がもつ情報処理の効率性
エルサッサーが行った人間の脳とコンピューターの比較論に注目しよう。彼の結論は、コンピューターの能力は原理的に見て脳にはるかに劣るというものである。では、具体的にはどういう点で「劣る」というのか。
彼がまず指摘しているのは、コンピューターが処理できる情報量は、脳が処理できる情報量よりはるかに少なく、仮に同じ量の情報を処理するとなると、コンピューターは脳よりはるかに多くのエネルギーを要するということである。このことは現在私たちが直面しているエネルギー危機の問題と直結する。AIが人間の脳を超えようとすればするほど、それに要するエネルギー量が膨大なものとなり、途方もなく費用がかさむのである。
一方の人間の脳はというと、エルサッサーによれば、これほど経済的に効率よく情報を処理できる装置はない。彼の時代には脳科学が十分発達していなかったこともあって、彼は脳の利点を証明できる具体的事例をあまりもっていなかったが、それでも人間の脳は環境と身体のバランスの産物であるから、従来の物理学では捉えきれない複雑な現象把握ができると考えたのである。
人の数だけ異なる脳
現代の脳科学者なら、脳がどのように外部の情報を処理しているかもっとわかっているので、エルサッサーの説を以下のように裏づけることができよう。たとえばジェラルド・エデルマンなら、人間の脳は数理的思考を発達させる以前に、感覚から得た情報を類別し、それぞれの情報をメタファーとして記憶していくものだから、1の情報から10の情報を一挙に得られるのであって、そこがコンピューターとは異なるというに違いない。
ちなみに、このエデルマン、コンピューターは何万個と同じものが存在し得るが、世界には人間の数だけ異なった脳が存在し、同じ脳が2つ存在することはあり得ないとも言っている。これは脳の可塑性に由来するのであって、脳は日々の経験によってその神経組織の連絡システムを更新し続けるものだからだというのである。すなわち、DNA的には同質の2人の人間でも、まったく同じ経験をすることはあり得ないから、それぞれの脳は異なった形成過程をたどるというわけだ。
このエデルマンの指摘は極めて重要である。グローバリズムの動きが加速し、AIの普遍主義が全世界を支配しようという時代において、人間の脳が人の数だけ異なると強調することの意味は大きいのである。同じAIは何万個も製造できる。同じ人間の脳をつくることはできないのである。
(つづく)








