2024年11月25日( 月 )

リクルートホールディングス~江副浩正氏のDNA、起業家精神は引き継がれた(後)

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もっといかがわしくなれ

 リクルートの創業は3つの時期に分けられる。第1の創業は、江副浩正氏が1960年にリクルートの前身の大学新聞広告社を設立した年。求人、住宅などの広告がもつ情報の価値をいち早く見抜き、「就職情報」などの情報誌で一世を風靡した。

 1988年に政財官を巻き込む戦後最大級の贈収賄事件「リクルート事件」を起こし52歳で経営から手を引いた。その後、懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を受けた。

 第2の創業は、ダイエーの傘下に入った1992年。不動産バブル崩壊で、巨額の借金を抱えたため、江副氏はダイエーの中内功氏に救済を求めた。ダイエーはリクルート株の35%を取得、傘下に組み入れた。事業は情報誌からインターネットに移行した。

 リクルートの社員たちにとっては、リクルート事件よりも、ダイエーの傘下に入ったことのほうがショックは大きかった。中内氏は、マネージャーたちを集めて、こう言った。

〈ワシはリクルートのような若くて元気な会社が大好きや。しかし、あんたらは世間から「いかがわしい」と言われてシュンとしておる。ワシのところもそうやったが、若い会社というのは、たいがいいかがわしいもんや。それでええんや。おまえら、もっといかがわしくなれ!〉(日本経済新聞12年4月16日付朝刊)

 この一言に場内は拍手喝采だったという。中内氏が、一瞬にして、リクルートの社員の心を鷲づかみした伝説的なスピーチとして語り継がれている。
そのダイエーの経営が悪化。ダイエーの鳥羽董社長は、リクルート株を売却することにした。これに中内氏が激怒。中内氏にとってリクルート株は、緊急避難として「預かった」ものだ。江副氏が裁判を終えてリクルートに戻ってくるときに、戻すつもりでいた。それなのに、鳥羽氏がリクルート株式を第三者に売却しようとしたので中内氏が激怒したのだ。これが鳥羽氏を追い落とすお家騒動の引き金になった。

 2000年、ダイエーが保有する35%のうちリクルートグループが25%を1,000億円で買い戻し、残り10%はダイエーが継続保有し、中内氏がリクルートの会長にとどまることで決着した。ダイエーの解体にともない05年、残りの10%を農林中央金庫に売却した。

峰岸真澄氏は、江副DNAを引き継ぐ申し子

 第3の創業は2012年。リクルートは社名をリクルートホールディングスに変更。株式公開、分社化、海外展開。人材派遣事業で「世界3位」を目指すという目標を掲げた。

 峰岸真澄氏は12年4月 その重責を担ってリクルートの5代目社長に抜擢された。立教大学経済学部を卒業した峰岸氏は、リクルート事件前の87年リクルートに入社。入社動機は、3年後に起業するために営業力の秘訣を勉強することだった。峰岸氏は、現役経営者としての江副氏をほとんど知らないが、そのDNAはすっかり刷り込まれていた。

 入社から24年間で30を数えるPC事業を経験。10のPCを立ち上げ、10のPCを撤退させた。頭角を現したのは92年の結婚情報誌「ゼクシィ」の創刊。結婚式場やドレス、指輪などブライダルに関する情報を掲載。紙媒体をいち早くネットに展開、ゼクシィnetモバイル版や住宅情報サイト「SUUMO(スーモ)」を立ち上げた。

 社長に就いてからも、起業家精神で海外M&Aに果敢に挑戦。12年に買収した米求人情報サイト大手のインディードは、今や「人材派遣業界のGoogle」と呼ばれるまでに急成長した。「世界3位」の目標を引き上げ、30年に「人材と販売促進の分野で世界一」の目標を掲げる。江副浩正氏の起業家精神の遺伝子は、次世代に脈々と受け継がれている。

(了)
【森村 和男】
 

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