脊振の自然に魅せられて(番外編1)~僕の少年時代 『あした天気になあーれ』
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私は少年時代を筑豊の炭鉱町、飯塚市で過ごしました。過ごしたのは小学校5年生までです。6年生になると、父の転勤で同じく炭鉱町である田川市へと引っ越しました。
戦後の復興期である昭和20年代当時、飯塚での少年時代は貧しく、まさに「たけしくん、ハイ!」の「北野たけし」を地でいくような生活を送っていました。
遠賀川の土手には2、3世帯の家族が生活していました。壁は、むしろや紙、ダンボールで、屋根はなく、橋が屋根がわりでした。水位が増すと家はなくなってしまい、また新しくつくり直されていました。空襲から逃れるために掘られた防空壕で生活している人たちもいました。
街には傷痍軍人がいて3人ぐらいのグループが、アコーデオンを伴奏しながら軍歌を歌い、日銭を稼いでいました。傷痍軍人は白装束で、足や手がない人がグループのなかに1人はいました。
交通手段は徒歩か自転車でした。自転車は黒塗りが主流で、フレームの間に商店のプレートがある頑丈な運搬車をしばしば見かけました。バスは戦後のガソリン不足もあり、木炭自動車でした。木炭自動車というのはガソリンの代用燃料として木炭を使う自動車のことで、バスの後部には木炭を発生させるための釜が付いていました。
木炭自動車は馬力がないので、走っている途中、スピードが落ちます。そんな時は決まって車掌がバスから飛び降り、バスの後部に回り、急いで釜のハンドルを回して火力を上げていました。鍛冶屋のふいごと同じです。
私は西鉄バスの車庫の近くに住んでいました。朝早くから車掌が木炭自動車の釜の温度を上げる「ウイーン、ウイーン」という音が聞こえてきたのを覚えています。私たちは、この車庫で溢れ落ちた木炭を拾って自宅の火鉢に使っていました。
道路は未舗装でデコボコでした。バスや車が走った後は埃がいつも舞っていたものです。貧しい時代でしたが、子どもたちは一日中、外で陽が暮れるまで遊び回り、「勉強、勉強」と口うるさい親はいなかったように思います。そんな少年時代でした。
(つづく)
脊振の自然を愛する会
代表 池田 友行関連キーワード
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