2024年12月23日( 月 )

地場企業を育成したバンカー(6)~企業と街を育んだ銀行マン

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福岡銀行元専務 杉浦 博夫 氏

 地域の発展には、商工業の育成が欠かせない。それを担うのが、主に地元の銀行であろう。預金という形で企業の財産を守るとともに、必要な資金需要に応えることで事業の維持、発展を支える。一般的には、銀行マンに求められるのはこのようなことだが、なかには企業経営者の育成や企業連携、文化度の向上、地域への貢献などを果たし、福岡の経済発展に大きく貢献した銀行マンがいた。今シリーズでは、3名の元バンカーにスポットをあてる。

杉浦詣で

 杉浦氏は福岡銀行の専務を退任した後、監査役を務めた。財界の調整役を担ってきた人望の高さと手腕は、専務退任後も高く評価された。そして、福岡銀行を退社した後は、杉浦事務所を開設した。

 すると、政財界を問わず大勢の人が杉浦氏を訪ねた。相談事や問題があると、まずは杉浦事務所を訪ねる。必要な人脈も杉浦氏につないでもらう。杉浦事務所は、陳情の窓口となっていた。人を紹介してもらう場合、紹介元となる人、つまり誰に紹介してもらうかでその後の話の進展が変わってくる。間に立つ紹介者が周りから一目置かれていたり、強い影響力をもっている人の方が望ましいといえる。そういう意味では、杉浦氏はまさに適任であったわけだ。「陳情の窓口」を訪れる人が後を絶たない様子は、いつしか「杉浦詣で」といわれるようになった。

 取材のなかで、杉浦氏を「信念が強く、古武士のような人」と表現する人が多いのが印象的だった。福岡県議会議員・加地氏は、県議選への出馬が決まった時、杉浦氏に推薦人を頼んだ。急きょ出馬が決まったこともあり、選挙に勝つには強力な推薦人が必要だと考え、杉浦氏を訪ねた。支援者の助言で事前に相談もせず、趣意書に推薦人として杉浦さんの名前を入れて印刷したものをもっていった。怒られて、「破棄しろ」と言われるのを覚悟していたが、杉浦氏は「もう、印刷物まで刷っているなら仕方ないじゃないか」と承諾してもらったという。球団誘致運動に関わった時も、周りの批判をよそに「受けてしまっているから仕様がない」と受け止めた。

 いろいろな思いを引き受け、困った人の力になる。自分のことは横に置いておいて、腹をくくって責任を取れる。その懐の深さと人としての大きさや強さが「古武士」に映ったのだろう。おだ歯科の小田氏も「JC時代にいろいろなお願いをした。杉浦氏は、できることとできないことをはっきり言われる方だったが、いろいろ言われながらも繋いでいただいた」と振り返る。

 古武士のイメージが強い一方、ユニークな一面ももち合わせていた。杉浦氏は会を主催していたが、遅れてくる人もいた。そんなとき杉浦氏は、声を荒げたりせず、自分の隣の席をその人のために空けておく。そうすると、二度と会に遅刻しなくなったという。

 若い人たちの面倒もよく見ていた。「杉浦さんは、若者の話をきちんと聞いてくれる」というのも広く知られていたことだったようだ。一緒に酒を飲み、若者の言葉に耳を傾ける。だから、財界や政界だけでなく、幅広い層の人たちが杉浦氏を慕って集まったのだ。

 2005年1月1日、肝不全のため亡くなった。享年81。葬儀には多くの弔問者が訪れたが、その多くが会場に入りきれなかったという。

 福岡に野球文化の灯を再びともし、芸妓や券番を支援し「もてなしの文化」を支え続けた。杉浦氏は、町(都市)の格の大切さなど国際化が進む福岡の今後の在り方について、自らの生きざまを通して道を示してくれているように思う。

(了)
【宇野 秀史】

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