2024年12月28日( 土 )

シリーズ・地球は何処に向かう、日本人はどうなる(9)~貴方の老後は貧か富か(2)

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日本高齢社会最前線~無縁社会の実相『誰も気にかけない』

大さんのシニアリポート第73回

家族という幻想からの脱却

 「棄老」の最大の原因は、家族関係の崩壊にある。終戦直後の都市部、とくに東京への一局集中化が発端である。上京するということは、地方で培ってきた家族や親戚、仲間という地縁・血縁を壊すことを意味した。上京後も核家族化がそれに追い打ちをかけた。一度壊れた絆を再構築することは不可能に近い。

 日本会議が重視している5つの項目のなかに、「伝統的な家族観の固守」がある。しかしそれはかなりの難題だと思われる。「家族」という考え方を下支えしているのは、「儒教的思想」である。「儒教では、身近なところから、徳を段階的に広げることを教えの原理にしている。まず、社会の基本単位としての『家』があり、家の原理を共同体レベルに広げ、さらに国家にまで拡大することで、『徳治政治』が実現できると説く。儒教が、ときに『家の宗教』とよばれるのもそのためだ。

 では、家の土台をしっかり固めるには、どうすれば良いのか?そこで登場するのが『孝』という考え方だ。『孝』の字が、『老』と『子』とで成ることからでもわかるように、『孝』は本来、老人を養うことを意味していた。つまり、子が親を養い、敬うことが『孝』の基本である」(『常識として知っておきたい日本の三大宗教 神道・儒教・日本仏教』(歴史の謎を探る会 編)というように、日本人の「家・家族」の根底にある思想は儒教の理念そのものなのである。

 「そこから、親が死んだ後も尽くすことが求められるようになり、祖先をまつることも『孝』の一部となった。さらに、祖先の祭祀を続けるには、子孫を絶やさないことが必要である。そこから、子を生み育てることも、『孝』にふくまれるようになった。つまり、『孝』には、『祖先の祭祀』『父母への敬愛』『子孫の繁栄』という3つの側面があることになる」(同)。

 現在、「長幼の序」(年長者と年下とには序列がある)という言葉の意味を理解している人はどれほどいるだろう。「儒教がそもそも、社会の倫理や規範を整えて理想的な社会を築こうとする思想である」(同)ことを考えれば、国家的秩序の維持を最優先させた戦前、「君臣の義」(主君と家臣は正しい義《道徳・倫理にかなっている》で結ばれている)と「長幼の序」とは日常生活に深く浸透していた。

 戦前の「大家族制」は儒教の精神そのものだった。戦後、戦争未体験の団塊の世代までは、それでも“儒教の匂い”を色濃く残した世代だったといえるのかもしれない。しかし、高度成長期以降に生まれた世代には、もはや「長幼の序」は通用しない。「家の宗教」である儒教は、家族そのものが崩壊することによって、その力を喪失していった。

 私は新著のなかで、「家族という幻想からの脱却」「(子どもに)棄てられる前に棄てる」を提案した。決断させたのは、桜井政成さん(立命館大学政策科学部教授 副部長・政策科学)のブログを目にしたからだ。

 「江戸時代以降の伝説のいくつかについては、高齢者が一軒家に集住し、互いに助け合いながら生活し、そして死を迎えたという。すなわち、今でいう『セルフヘルプグループ活動』『コーポラティブハウス』がすでに近世のムラ社会には存在していた可能性が高いのである。

 たとえば柳田国男の『遠野物語』には、『デンデラ野』という地域で、高齢者相互扶助システムが行われていた伝説が掲載されている」(考えるイヌ~桜井政成研究室~)と述べている。このブログを読み、自主運営する「ぐるり」こそが、これから最も必要とされるコーポラティブハウスだと確信している。

 行政のセーフティネットを巧みに利用し、行政の“真意”を見極めつつ、自分たちの強い意思で地域をつくり上げていく。「集合住宅(団地)が住民を殺す」という現実から逃れる方法はそれしかない。

(つづく)

<プロフィール>
大山 眞人(おおやま・まひと)

1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。ニュースサイト「NetIB-NEWS」で『大さんのシニアレポート』を連載中。2月に『親を棄てる子どもたち』(仮題・平凡社新書)を刊行予定。近著に、『悪徳商法』(文春新書)、『団地が死んでいく』(平凡社新書)、『騙されたがる人たち』(講談社)など。

 

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