2024年11月05日( 火 )

【シシリー島便り】シシリーの柑橘類

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 クリスマスが終わると、日本では一気にお正月準備に取りかかるが、シシリー島では年明け1月6日まで、クリスマスの飾り付けが取り外されない。
クリスマスイブから年明けまで、シシリーでは大量の食事を摂る慣習があり、まさに「食べ地獄」である。そんな時期はさっぱりした柑橘類が食べたくなる。

 パレルモにコンカドーロと呼ばれる「黄金盆地」が存在する。9世紀、アラブ人によってこの地にオレンジやレモンの木々が植えられた。その木々が太陽の光に照らされ、果実が黄金のように輝いていたことからイスラムの詩人たちはこの地を褒めたたえた。

 コンカドーロの多くは、その後分割され、それぞれ私有地となり、地主たちは集めた地代でパレルモ中心部に豪邸を建てたり、スペイン貴族の称号を金で買ったりした。コンカドーロで採れた果物はイタリア本土で売られたが、18世紀になると北ヨーロッパにも輸出されるようになった。 

 当時、料理に酸味を加えるために、ぶどうなどを使っていたが、シシリー産のレモンが登場して以降はレモンで酸味を加えるようになった。また皮から抽出される製油が香水などに使われるようになり、市場が拡大した。

 柑橘類の栽培で利益を得られるようになると、新しい投資家たちがやって来る。「ブルジョワ階級」だ。彼らはレモン畑だけでなく、土地を改良し、オリーブ畑、ブドウ畑をさらに拡大した。1800年代半ばには、蒸気船が発明され、アメリア合衆国へも柑橘類が輸出されるようになる。

 シシリーのオレンジとレモンは一緒に輸送されたが、オレンジに比べレモンのほうがはるかに多くの量が輸出されていた。レモンは1年に何度も花を咲かせ、1本の木から年間600個から1,000個の実がなるのに対し、オレンジは1年に400個から600個にしかならないからだ。

 1800年代、シシリー島の柑橘類栽培者たちはほかのどんな農業生産者より裕福な生活ができたという。その後、1860年にイタリア統一。この混乱の時代にマフィアが台頭したといわれる。ゆすり、たかり、恐喝、見張り番の取り立てなど、まさに「コンカドーロ=黄金盆地」がその舞台となった。

 マフィアは、使用人に隣人の畑を見張らせ、農作業をさせ、武器をもって警備させて、隣人の利益を守った。さらに、収穫前にオレンジ、レモン、マンダリンを買い占め、季節になると高く売りさばいた。港まで運ぶ業者と、それを船に積み込む雇人もマフィアの圧力がかかっていた。

 周囲に不安要素を抱えさせ、その危険から守る役をはたすかのように見せかける二役を演じることにより、マフィアはすべてを支配していった。レモン畑を囲む高い塀は、殺し屋が身を隠すのに役立った。ピストルが入るだけの大きさの穴が残っている石壁もある。

 第1次世界大戦のころまで、シシリーから多くのレモンがアメリカに輸出されたが、戦争を機に輸出が途絶えた。それに代わって新たにシシリーの柑橘類産業に登場したのがマンダリンである。

 マンダリンにはクレメンティーノ、タンジェリンなど、さまざまな種類がある。インドや中国、マレーシア原産のものなどが多いが、シシリー島にはマルタ島産が入ってくる。

 マンダリンは皮をむきやすく、香り高く、シシリー島で一気に人気が出た。さらに、シシリー東部でつくられるアランチャロッサ、ブラッドオレンジがある。赤い色はアントシアニンという色素が含まれる。オレンジにアントシアニンが含まれるようになるのは、実が熟す冬の季節に日中と夜間の気温差が10℃以上ある地域に限られる。暖かさではなく、寒さがオレンジを赤く染めるのだ。

 通常のオレンジよりも値段が高いのは、季節が限られ、皮がとても傷付きやすいからだ。1990年代に規制がなくなり、海外から安いオレンジが輸入されるようになった。これによってシシリー島の柑橘農園の3割以上が打撃を受け、廃業に追い込まれてしまった。

 北アフリカやスペイン、イスラエルから大量生産の安い果物が輸入されてくる。不景気の続くシシリーの一般家庭にとって、地元の農作物を守りたい半面、低価格でおいしい輸入品に手がのびてしまうのは致し方ないことなのだ。

 ノルマン王たちが美しい柑橘畑、人工池に囲まれる宮廷ですごし、まるで楽園、ハーレムと化したシシリ――。現在、パレルモは建物に覆われ、荒んだ地区もあるが、そこに至るまでの事情を知ると景色を見る目も変わってくる。

 今回が最後の投稿になる。シシリーに住む私にとって、日本とはるかに異なる文化、歴史、言葉のなかで生活するのは、もちろん苦労も多いが、人間らしい生活ができるところだと、実感することが多い。

 この地を選んできたわけではないが、運命だったのだろうと思う。シシリーに感謝しつつ、この島の魅力がより多くの人に伝わるよう精進したい。来る2019年、すばらしい年となることを祈って『ARRIVEDERCI E BUON ANNO!!!』

(了)

<プロフィール>
神島 えりな(かみしま・えりな)

2000年上智大学外国語学部ポルトガル語学科を卒業後、東京の旅行会社に就職。約2年半勤めたのち同社を退職、単身イタリアへ。2003年7月、シシリー島パレルモの旅行会社に就職、現在に至る。

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