2024年12月22日( 日 )

アダル・武野重美会長の成功の秘訣~ピンチにこそ閃きが湧く

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福岡市で家具製造販売を展開するアダルが中国・上海に進出したのは1996年のこと。アダル・武野会長のこれまでの歩みを振り返る。


1990年までは大躍進

 筆者は企業調査マン時代に640社の会員を担当していた。栄枯盛衰、さまざまな経営者とめぐり逢い、その浮き沈みに立ち会った。1980年より前に知り合った(40年以上の付き合い)経営者のなかで、公私にわたって付き合ってきた尊敬する友が10人いる。その1人が(株)アダル・武野重美会長である。この人の経営者としての特性は危機に絶対にめげない、そして必ずその危機を突破する閃きが湧いてくることだ。

 確かに武野会長のビジネス人生は山あり谷ありであった。しかし、一言でいえば90年までは躍進につぐ躍進であったのである。同氏の打つ手はことごとく当たった。特注椅子生産日本一のメーカーとなり全国に営業網を広げていったのだ。91年には現在の本社屋を立ち上げ『イスヤ商会』から『アダル』へと商号を改めた。そして『上場の準備』に着手したのである。

 ところがバブルが弾けて以来、一挙に日本経済は沈んでいく。仕事の急減はなかったが、受注単価の値下げのテンポの速さには驚くばかりであった。武野会長からは「これでは日本では製造できないな」と珍しく弱気な言葉を耳にした。いや、弱気を通り越して苦痛のどん底に落ち込んでいた。

 加えること、同時に買収していた会社2社の清算のためにエネルギーを消耗していた。まさしく東奔西走で心身をすり減らしていたのである。この2社の買収に関しては、頼まれて断ることができずに引き取ったものだ。2社は岡山県中国山地の麓と筑豊にあった。振り返ると「この92~96年の期間が武野会長の経営者としての最大の危機の時期ではなかっただろうか?」と推測している。

 確かにこの26年間の中国・上海での奮闘の苦労はある。ただこれは「上海で家具製作をしないとアダルは日本の市場で太刀打ちできない」という戦略を決定した。為すべきことが鮮明であれば労を厭わないのが人間の性分である。92~96年当時は先行きに確信がもてないから疲労困憊状態に陥っていたのだ。

デフレからの脱却策

 「もうこれ以上、日本で椅子を請けて製造しても採算にのらない。赤字倒れになる」と武野会長は危機感を深めた。「そうであれば上海で製造拠点を築くべきだ」と迫った覚悟をした。本人は香港、台湾ビジネスで苦い経験をしているからあまり乗り気ではなかった。幹部社員たちが先乗りの上海ビジネスをやっていたが、ことごとく失敗していた。あらゆるマイナス要因に囲まれて同氏は乗り気でなかった。

 「では上海市場視察に行こう」という話になり上海に飛び、各地の工場視察で歩き回った。最後にめぐり合ったのが大塚家具から製造委託を行っている工場で、上海駅から北東に3.5kmに位置する交通要所にあった。武野会長は決断した。「この場所に決めた。合作でやる」と。当時は独資のケースは珍しく合作という無難な道を選んだ。無難な道は茨の道になったのである。

 大塚家具が上海で家具製造委託を開始したのは92年前後と言われている。大手家具業者ばかりでなく福岡県大川市にある中小企業も上海周辺に進出している。結果、進出中小企業の大半は失敗した。だが中国・上海側は日本からの莫大な投資がなされたことで製造業の発展の原動力になったのである。

 「デフレの日本で製造してもダーメ、中国へ生産拠点移転」の流れは2000年ごろまで続いたようだ。そしていまや上海および周辺では「素材産業・付加価値の少ない産業は他所へ出ていけ!!」という政策転換を強行している。本当に世の中の移り変わりは激烈である。ただし武野会長にとって英断の機会となったのだ。

張さんとご縁で運は上昇

 最初の合弁の方針は失敗したが、すかさず独資会社を立ち上げ製造を開始した。中国人と向き合いながら武野会長は日本で鍛えてきた経営手法を如何なく発揮できるようになってきた。本人自身も椅子つくりの職人として自ら腕を磨いてきた経験を生かし、日本で幾多の職人たちを育てきた。このコツを伝える真髄は同じである。5年、10年と指導すれば人材は育つものである。

 「30年前、日本でも残業して稼ぐことに非常に執着していた。ところが今、日本では残業規制と働き手側に稼ぐ執着が薄れた。上海では日本の30年前と同様に稼ぐことに貪欲である。残業代は法律に則って2倍払うことにしている。皆、よく働くし、品質も生産性も日本を上回っていると評価して良い」と断言する。「茨の道」を20年歩いて日本をしのぐものづくりの水準に達したのである。

 武野会長は上海に移ってからしばしば強調していたことがある。「成功するには中国現地の人を身内にしなければならない。しかし、相手次第である。中国人は自分の理になるには10倍、100倍必死になるタイプがいる。また逆目は権力を握って使用人扱いして反発され結果、会社を破滅させることもある。ただし中国で成功している日本人たちは必ず中国人を身内に入れている」。

 わかりやすくいえば運の悪い人は威張り散らすタイプの女性に捕まる。「私は社長夫人よ!!」と同じ中国人には命令口調になる。一心不乱に経営に専念することをしない。無駄遣いばかりして従業員・社員たちを使用人扱いにする。反発した従業員たちはいっせいに退社していく。日本人経営者はただオドオドして呆然とするだけ。こういう破綻の例をたくさん目の当たりにした。

 武野会長は恵まれていた。張さんが「奥さんにしてくれ」と迫ってきた。現在の浦東空港近くの農家育ち(当時の上海でいえば田舎出身)。彼女は日本に研修生として日本にきたこともある。武野会長も張さんの一途さに心が動かされた。結果、運が転がってきた。よくまあこれだけ働くものかというほど働く。社員への気配りも相当なものである。この詳細なレポートは大石記者の後日掲載記事に譲るとする。

58歳で第2の起業への挑戦

 1996年に上海進出の決断を下していなかったならば今日のアダルの存続はかなり難しかったであろう。武野会長は58歳で自ら上海工場の立ち上げに自ら携わった。第2の起業への挑戦である。幹部に託さなかったことは正解であった。というよりも「試練の事業を部下に任す」非情な面をもたない優しい経営者である。自分で試練を引き受けたのだ。

 武野会長は経営者としては非凡な方である。確かに合弁会社を解散して独資単独で会社をスタートさせた。嘉定区で始めた独資の会社は3年ほどで黒字基調に転換させている。2002年前後にはかなりの利益計上ができるようになったとみる。07年には上海・松江に別会社として第2工場を建設した。こちらは椅子専用工場として製造開始した。

 この松江工場は嘉定区の工場と比較しても桁違いの大きさである。推定で5億から6億円投資規模とみる。基本は自前の資金調達であった。この例からみても中国人活用のコツを会得した武野会長は早い段階でスムーズな経営を展開していたのだ。かなりの強かな一面もお持ちである。

 あと強力な後押しになったのは不動産鑑定力。日本でバブル期が始まる前までは武野会長の資産形成のポイントの1つは不動産購入であった。この鑑定能力を上海においても如何なく発揮して不動産の仕込みを相次いで行った。この不動産による資金調達力が今回の4番目の資金調達にも活用したとみる。この2月で80歳になる武野会長は「90歳まで現役だ」と宣言する。

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