大和ハウス「中興の祖」樋口会長がCEO退任。その功罪を検証する(前)
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大和ハウス工業の樋口武男会長兼最高経営責任者(CEO、81歳)は、6月25日に開催する株主総会で代表権のない会長に退く。樋口氏は社長に就任した2001年4月以来、約18年間トップを務めた。この間、1兆円だった売上高を4兆円超まで成長させ“中興の祖”と呼ばれた。芳井敬一社長兼最高執行責任者(COO、60歳)がCEOを兼務する。樋口氏の功罪を検証する。
建築基準の不適合やグループ会社での不正流用など不祥事が相次ぐ
大和ハウスは今年に入り、相次いで不祥事が発覚した。今年3月に、中国・大連にある合弁会社で総経理(社長)らによる14億1,500万元(約234億円)の不正流用を発表した。現在、第三者委員会による調査を進めているが、連絡がつかない総経理らからの回収は困難と判断。持ち分に当たる約117億円に加えて、資産の評価損も生じ、計約130億円を持ち分法投資損失として19年3月期に計上した。
4月には、建設した賃貸アパートや戸建住宅が建築基準に適合していなかったと発表した。不適合があったのは合計2078棟で、2001年1月~10年6月に引き渡した6都県のアパート200棟は、防火安全性が十分でないおそれがある柱や、認定を取得していない柱を使っていた。00年10月から13年2月に引き渡した29都府県のアパート990棟と戸建888棟は、土台となる基礎の認定を受けていなかった。
それらの損失を計上した結果、19年3月期の連結純利益は前期に比べて1%増の2,374億円にとどまった。本業は好調で、売上高は4兆1,435億円に達した。樋口氏が社長に就任した当時1兆円あまりだったから実に4.1倍だ。
こうした急成長は、樋口氏の手腕によるものだ。だが、急成長の陰で、不祥事が相次ぎ、ガバナンス(企業統治)が疎かになっていた実態が浮かび上がった。樋口氏の退任が、これらの責任によるものだとの見方について、芳井社長は「明確に違う」と否定した。過酷な軍隊と抑留体験
創業者の石橋信夫氏の事業家人生の原点は、軍隊とシベリアでの3年間の抑留体験にある。軍隊で雪中練習中、連射砲を載せた1tのソリが背中に乗り上げ、腰から下が完全に麻痺した。敗戦で、捕虜となりシベリアの奥地で抑留。想像を絶する拷問にも耐え、48年に帰国。その過酷な体験から「瞬間、瞬間を悔いなく生きる」と心に決め、人並み外れた行動力で事業に取り組む。
1955年4月、奈良県吉野郡川上村で家業の林業を継いだ実兄・義一郎氏とともに大和ハウス工業を設立。59年に「3時間で建つ11万円の勉強部屋」ミゼットハウスが人気を呼び、これがプレハブ住宅の原型になった。初代社長は義一郎氏だったが、仲違いして、63年信夫氏が社長になる。
義一郎氏は無類の株好きだったようだ。バブルの時代、浪速の女相場師と言われた料亭女将、尾上縫の資金スポンサーとして登場した。
後継者の息子を解任
信夫氏は、後継者づくりに失敗した。96年に長男・信康氏が社長に就任した。米国留学の経験をもつ信康氏は、米国仕込みのリストラを実施。300項目にわたる細かな経費削減をつくり、営業マンの士気を低下させた。当然のことながら受注が急激に落ち込んだ。泥臭くドブ板を踏む営業で成長してきた大和ハウスの現場が「契約をとってなんぼ」の世界に生きていることを信康氏は理解できなかった。
現場に渦巻く不満を目の当たりにした父親の信夫氏は、息子の信康氏を更迭。99年の株主総会で信康氏は社長を引責辞任。信夫氏は取締役を辞任し、名誉会長に退いた。信夫氏にとって痛恨事だったに違いない。信夫氏が東郷武氏をワンポイントリリーフに、2001年に社長に起用したのが樋口武男氏である。信康氏が続投していたら、樋口氏の出番はなかった。
(つづく)
【森村 和男】法人名
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