電力から情報通信、道州制、演劇興行まで~傑物・芦塚日出美氏の足跡をたどる(1)
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2018年11月に、「旭日中綬章」受章の栄誉に浴した芦塚日出美氏。九州電力に入社後、技術畑で研鑽を重ね、やがては副社長にまで上り詰めた後に、九電グループの九州通信ネットワーク(現・QTnet)の社長に転じて同社の経営再建にメドをつけ、また同時期には福岡経済同友会で“道州制”に向けた数々の活動を行い、さらにはその後、請われて博多座の社長に就任し、経営の建て直しに見事成功――等々。同氏のこれまでの経歴を簡単に列挙しただけでも、普通の人の4~5人分に相当するほどの濃密な人生を送ってきているように思える。
電力から通信、そして地方自治や芸術・文化に至るまで、多岐にわたる分野で活躍し、そのたびに輝かしい実績を残してきた傑物の足跡を、簡単に振り返ってみよう。
学生時代に形成された芸術・文化の下地
芦塚日出美氏が生まれたのは、まだ太平洋戦争が開戦する前の1939年12月である。幼少期を福岡市や長崎県諫早市、長崎市で過ごした芦塚氏は、中学3年のときに再び福岡市に戻った。高校受験を経て進学先に選んだのは、“福岡御三家”の一角である名門・修猷館高等学校。同校の質実剛健で自由闊達な校風の下、芦塚氏は勉学に打ち込むだけでなく、所属していた英研での活動などにも力を入れていった。
さらに高校卒業後、芦塚氏が進学した大学は、これまた名門・九州大学である。九大工学部の門戸を叩いた芦塚氏は、大学での実験などの勉学の傍ら、レコードでの音楽鑑賞やダンス、そしてときには麻雀にも打ち込みながら、バラ色の青春時代を謳歌していった。
この高校・大学での学生時代に、勉学だけでなく趣味や遊びなども含めて、さまざまな分野に全力で打ち込んでいったことが、芦塚氏の今に通じる、豊かな感性と芸術・文化への深い造詣などの人間的な素養の下地となった――といっても過言ではないだろう。
技術屋としての充足感と、渡仏研修での貴重な経験
九大卒業後、22歳で九州電力に入社した芦塚氏は、上椎葉水力発電所で2年半、北九州支店電力課で2年半と、計5年間にわたって現場での経験を積んだ。
さらにその後は、本社の工務部給電課に配属。自動電圧・周波数制御装置や系統保護装置、系統安定化装置など、電気の品質確保や電力の安定供給のための開発・設置・試験・運用などに従事していた。
こうした、いわゆる“技術畑”で研鑽を積んでいた当時のことを、芦塚氏は「これぞ男の生きる道」「よくぞ電力技術屋に生まれたり」――と、自身が電力系統運用技術の最先端にいるという充足感や満足感を味わっていたと述懐する。
さらに、ちょうどこの時期、芦塚氏は生涯の伴侶となる美穂夫人とも出会った。父の知人の紹介による見合い結婚ではあったものの、互いに強く惹かれ合い、出会った翌年には結婚。2人の子宝にも恵まれ、芦塚氏は公私ともに充実していた。
そんな芦塚氏にとって大きな転機となったのが、73年に経験したフランス電力公社(EDF)での研修だった。
当時のフランス電力公社は、電力系統の計画・運用に関しては世界随一の技術力やノウハウを有していた。技術畑に身を置いていた芦塚氏にとって、総合給電・自動化システムを始めとした世界最先端のEDFでの研修は、さぞかし刺激を受けたであろうことと推察される。
さらに、フランスでの研修で芦塚氏が習得してきたのは、単なる電力系統の技術だけではなかった。フランスでの研修に先立って、「1つの言語を知ることは、1つの文化を知ることなり」との信念の下でフランス語の特訓に明け暮れた芦塚氏は、“華の都”といわれるフランス・パリの芸術・文化に触れたことで、自身の優れた感性にさらなる磨きをかけていった。
このフランスで磨かれた感性や芸術・文化に対する造詣の深さが後々、自身が博多の芸術・文化の拠点「博多座」の再建を引き受けた際に大いに役に立とうとは、このときの芦塚氏にはまだ知る由もなかったことだろう。
(つづく)
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