2024年12月22日( 日 )

電力から情報通信、道州制、演劇興行まで~傑物・芦塚日出美氏の足跡をたどる(2)

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電源ベストミックスの“日本一の優等生”に

 かくしてフランスの地で、世界最先端の電力系統技術と、世界に誇る芸術・文化の感性とを貪欲に吸収して我がものとした芦塚日出美氏は、揚々と日本に凱旋。帰国後は、工務部工務課や福岡電力所・発変電課副長、企画部副長などを担当し、その後に赴任した熊本支店では電力課長として、熊本管内の電力系統計画と運用に尽力した。

芦塚 日出美 氏

 その後1982年、芦塚氏が42歳のとき、本社の企画部設備計画課長を拝命した。火力を始め、水力や原子力などのすべての発電所と、送電・変電という輸送設備などのすべてについての開発計画の策定・調整という任務を担い、いわば電力会社としての“屋台骨づくり”を任されることになったのだ。ここで芦塚氏は、料金低減を目指した設備投資計画などの総合調整や長期経営計画の策定を行い、電源開発戦略目標として「最適電源構成比(ベストミックス)」を設定し、その追求に努めた。

 当時の電力会社は地域独占の公益事業であり、毎年3月に資源エネルギー庁からの「施設計画ヒアリング」が実施され、次年度以降の施設計画を承認してもらう必要があった。電力会社各社にとっては、関係役員や部長が総出で当たらなければならない、いわば最大ともいえる一大イベント。芦塚氏ら企画部はその事務局参謀の役割を務めていたそうだが、これまで進めてきた電源開発戦略が評価され、資源エネルギー庁の担当者からは「九電は電源ベストミックスの日本一の優等生ですね」とのお褒めの言葉をいただいたという。

 芦塚氏はこの企画部での任務を、5年間にわたって務め上げた。

 87年、芦塚氏が47歳のとき、「電気事業連合会(電事連)」に出向し、工務部長を拝命した。電事連とは日本の電気事業を円滑に運営していくことを目的とした、電力会社9社による任意団体。原子燃料サイクル事業や原子力PA(パブリックアクセプタンス)など、電力業界を牽引する役割を担っており、監督官庁の資源エネルギー庁を始めとした各省・関係諸団体とも良好な関係を築いていた。芦塚氏も含めて各社各部門から優秀な人材が派遣された、ある意味“若手エリート集団”であり、各社にとっては中央情勢を知るための情報源でもあった。

 電事連で芦塚氏は、資源エネルギー庁の関係課長との案件の協議調整などを担当。家庭用200V機器の利用促進に向けての西欧4カ国での調査訪問の実施や、米国変圧器メーカーのアライドシグナル社と米国通商代表部(USTR)から突き付けられた難題に対する交渉など、さまざまな重要な任を担い、その能力を如何なく発揮した。

 92年、芦塚氏が52歳のとき、今度は九州電力・大分支店の支店長を拝命した。当時の大分県では平松守彦知事の下、「一村一品運動」を始めとした地域活性化策が進められていた。芦塚氏が支店長を務める大分支店は、県内の11営業所と2電力所、地熱発電所も統括する立場にあり、芦塚氏は専用車で管内を回りながら職場の活性化と業績向上を目指すとともに、「魅力ある地域づくり貢献」として数々の地域活動支援にも力を入れていた。そうした地域への貢献活動が評価され、3年後に芦塚氏が本店に転勤する際、挨拶のために平松知事を訪ねたところ、「大分県かぼす大使」に任命されたという。

10年間にわたって九電の経営に参画

 95年、芦塚氏は九電の本店に栄転。技術屋としての自身の出身母体である工務部で、工務部長を拝命した。同年12月には31年ぶりに電気事業法が改正され、発電部門に競争原理を導入する卸供給入札制度や、特定電気事業制度の創設など、電力業界は激変の真っ只中。芦塚氏は米国サザン・カリフォルニア・エジソン(SCE)社を訪問し、発送配電の水平分離や、独立の系統運用機関(ISO)と電力取引所(PX)の設置に向けた準備の様子などを調査見学しながら、やがて日本にも到来するであろう大きな変化の波に対する準備のため、知見を深めていった。

 96年に芦塚氏は企画部長を拝命。電源開発計画や長期設備投資計画、電力長期計画などのさまざまな計画の策定や、経営分析、組織および職務権限などの対応に従事するとともに、九電の経営政策を協議する常務会などの事務局としての多忙な日々を送っていた。そうしたなか、同年10月には、芦塚氏がまだ30代前半の若かりし頃に研修で訪れたフランス電力公社(EDF)と九電との間で、交流協定が締結。パリのEDF本社での調印式には九電の大野茂社長(当時)と共に訪仏し、懐かしの地・フランスで、両者交流協定の具体的覚書の調印などで重要な役割を担った。

 芦塚氏はその後、97年には取締役企画部長に就任したほか、99年には常務取締役、2003年には代表取締役副社長に就任。07年に九州通信ネットワークの代表取締役社長に就任するまで、取締役から数えておよそ10年間にわたって九電の経営に参画し、グローバル時代における国際化の推進など、さまざまなかたちで辣腕を振るい、事業家としての才覚を如何なく発揮することになる。

(つづく)
【坂田 憲治】

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