続々・鹿児島の歴史(7)~郷中教育~
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ここからは、薩摩藩の子弟教育として著名な郷中(ごじゅう)教育や奄美の砂糖、薩英戦争や西南戦争、藩外・県外の人物が江戸末期や明治中期の鹿児島を紹介した書物2冊、特産の焼酎、シンボル桜島、さつまいも等について述べます。
まずは郷中教育について。郷中とは本来方限(ほうぎり)の意味で地域を指しますが、江戸期には地域の青少年育成を目的とした団体です。現在も郷中教育の教えとされる「負けるな」「うそを言うな」「弱い者をいじめるな」を校訓とする小学校があり、イギリス発祥のボーイスカウトは郷中教育にヒントを得たものといわれます。
郷中教育のきっかけは、秀吉の朝鮮出兵の際、留守役の新納忠元らが青少年の風紀の乱れがないように、二才(にせ)が集まって武士道を鍛錬する組織をつくったことといわれます。郷中教育の基本ともなった「二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)」は、武道を嗜み、「山坂達者」を心がけ、忠孝の道に背かないよう、強く武士の守る道を説いています(従来忠元作と言われましたが、忠元作ではありません)。その後、城下の与(くみ)編成が地域ごとになり郷中の組織は整備されました。25代重豪の時は、造士館・演武館ができ、郷中との二重教育がなされ、さらに28代斉彬は藩政改革を進めるなかで、各地域に稽古所が設置され、明治期の小学校へとつながります。
郷中の成員は、小稚児(6.7~10歳)、長稚児(11~14.5歳)、二才(14.5~24.5歳)、長老(妻帯者)にわかれます。1日の生活は、小稚児は、起床後先生宅で書物習い、朝食後集合して稚児頭のもと心身鍛錬、その後長稚児の指導で書物習いの復習、午後4時から日暮れまで稽古場で示現流(自顕流)の練習です。長稚児は、夕方には二才衆の夜話の座元に出かけ指導を受けます。二才は役所等からの帰宅後、午後4時から稽古場で稚児の稽古をつけた後お互いの稽古、夜は各自輪番に座元を決め、軍書を輪読し、また「詮議」をしました。郷中で起こる問題は二才で処理し、できない場合は長老に相談しました。長幼の序は厳密でしたが、親密な交際でした。
郷中教育の特徴として、(1)「古えの道を聞いても唱えてもわが行いにせずば甲斐なし」(島津日新斎「いろは歌」)のような実践的な教育(2)地域社会が自発的に実施した教育(3)年齢集団的な段階的な教育(4)「山坂達者」を重視した鍛錬教育の4点があげられます。このような教育方針で、とくに明治維新期に多くの人材を送り出し、指導的な役割をはたしました。明治以後、地域で育てる伝統は、「学舎」と呼ばれる施設へと発展していきます。
このような一面があったのはたしかですが、他方、多くの歴代藩主が青少年に対して、もっと学問に励み品行方正であるよう文書を出しています。玉利喜造(初代鹿児島高等農林学校長)は、回顧して、年長者の年少者へのいじめもあり、これまで仲良く遊んでいた年少者の間に「何等事由なく、突然(年長者の)命令に依り懸命の争闘(いさかい)をなさしむ、実に惨酷非道も甚し」「斯くして出来上りたる鹿児島人の気質性格は以て察すべきなり」としています。明治中期に出版された『薩摩見聞記』(旧・長岡藩士本富安四郎著 後で詳述)も、人格形成や教育効果でのマイナス面も指摘しています。
幕末時に斉彬の改革や薩英戦争等藩全体が一体となってまとまるようになり、郷中教育のプラス面がより顕在化していたといえます。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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