2024年12月22日( 日 )

三代で身代を潰すのは世の常~井上兄弟、政治業に就職する(前)

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 博多を代表する紙与産業(株)のように、営々と家業を繁栄させている例もたまには見かけるが、偉大な創業者が身代を拡大させるも、その3代目で潰れるのは東西古今の法則である。博多で、“博多山笠のドン”として4半世紀にわたって采配を振るっていた井上吉左衛門氏。同氏は事業拡大に非凡な才を見せ、偉大な実績を残したが、この傑物の孫たちは事業拡大を果たせずに、政治業に就職してしまったのだ。

強者がいずれ消えるのは世の摂理なり

 これまで博多の名門・老舗企業が、どれだけ潰れていったことであろう。40年間、企業調査マンとして日本経済界をウォッチしてきた者として、感慨深いものがある。能力なき指導者のために、淘汰されるドラマが多々あった。大半は、世の中の地殻変動のために振るいにかけられたケースが多いのだ。栄枯盛衰の喩の通りである。筆者が最も印象に残ったのは、中牟田一族が経営していた岩田屋だ。最終的には伊勢丹の傘下になったが、「中牟田=岩田屋」は倒産したのである。
 博多の不動産業のなかで事業名門といえば、渡辺・太田・大神の三家が挙げられる。このうち、隆々として事業継続しているのは渡辺家、現在の紙与産業(株)であろう(紙与産業については後記する)。あとの二家については、華麗なる大神一族の筆頭であった祥雲は平成の初頭に潰れた。もう一党の旗頭である太田家も、中核であった東邦生命(本社・東京であった)は放漫経営で破綻して外資に買収された。ただ太田一族は、日航ホテル福岡、博多大丸等々の事業資産を残している。
 流通の博多オーナー企業の大半は潰れている。田中丸一族は福岡玉屋を筆頭に小倉、佐賀、佐世保、長崎に百貨店を経営していた。福岡財界の中枢を担ってきた存在であったが、結果は破綻してしまった。弊社社員の3分の1(若い社員たち)は『中洲ゲイツの前に玉屋という百貨店があった』という事実を知らない。あー無情なり。世の流転は激しい。ベスト電器、カメラのドイなどは、一瞬ではあるが、業界日本一になったこともあったが、最終的には一族経営は瓦解した。スーパーの渕上ユニードは、ダイエーに買収された。
 意外と知られていないのは、井上喜(株)(本社・博多区上呉服町)である。業種は化成品扱いの商社だ。創業は1887年であるから、約130年の業歴を有している。井上一族が経営し地元財界の一翼を担ってきたのだが、時代の流れに乗れずに行き詰まる。現在は、従来の仕入れ先であった三井物産の関連会社となったが、事業継続は図られている。博多・地の人に言わせれば、『博多の名門・井上家』と呼ばれてきたのである。

紙与産業こそはダントツ

 『では、博多の老舗企業の見本はどこか?』という素朴な質問が飛んでくるであろう。その問いには、即座に『紙与産業』と答える。九州電力の本社があるところの地名が『渡辺通』と呼ばれている。現在、渡辺通は5丁目まである。地名がまさしく人の名前=渡邉から取られているのだ。福岡藩主である黒田家の名を使った地名は見当たらない。なのに、一個人の渡邉家が地名に充てられている。凄い存在感のある家柄なのだ。なぜか?現在、地名として使われている渡辺通の大地主であったのだ。江戸時代後期(創業1825年)から勃興してきた博多商人の一党=渡邉一族なのである。そして博多老舗のダントツの存在になっている。
 その一族の中核企業が、紙与産業(代表・渡邉與三郎氏、本社・中央区天神、設立1920年3月)である。博多のまちの中心部には、腐るほどのビルディングを有しているのだ。関連企業というか一族でも遠縁になるが、㈱渡辺藤吉本店(本社・博多区店屋町)などがある。ただ紙与産業の代表取締役社長・渡邉與三郎氏は現在、90歳の高齢だ。次へのステップ=事業継承が近々の課題になっている。

 一族の事業継承を真剣に研究してきた経営者がいる。福岡地所㈱の榎本一彦氏である。祖父にあたる四島一二三氏が、福岡相互銀行を起こした。偉大な事業家であったことは誰しもが認める。2代目に四島司氏が事業を就いた(榎本氏の叔父にあたる)。有能な経営者であったが、金融激変の波に呑まれて西日本銀行に吸収された。現在の西日本シティ銀行である。榎本一彦氏は事業存続に注力している。同氏を源とした2代目(一族)までは、『福岡地所は安泰』と言えるであろう。

(つづく)

 
(後)

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