李登輝元台湾総統が死去~台湾の「本土化」を推進した「哲人」政治家(前)
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7月30日午後7時24分(日本時間同8時24分)、李登輝元台湾総統が台北市内の入院先の病院で死去した。享年97歳。李元総統は今年2月に牛乳を誤嚥して病院に搬送され、肺炎治療のため入院していた。この数日で容体が急変し、前日の29日に蔡英文総統、頼清徳副総統や蘇貞昌行政院長(首相)らも見舞いに訪れていたところであった。
「台湾人」意識の醸成
李元総統の業績、日本との関わりについては、在職時(1988~2000年)からこれまでにも多く触れられているが、今振り返ってみて、再度強調したいのは、台湾人が自身を主体とする「台湾人」意識を醸成するきっかけをつくったことであった。
従来の国民党政権下では、台湾は中国の一地方としてしか位置付けられていなかったが、たとえば学校では中国大陸の歴史ばかりを勉強していたのに対し、台湾を主体とした歴史を編み直して教えるようにした。
その結果もあり、今の台湾人、とくに若年層は自然な「台湾は台湾」という意識および台湾人としての誇りをもっている。2014年のひまわり学生運動で主体となった学生、市民は李元総統の改革により生まれた人たちといってよいだろう。また、日本の植民地統治の功罪に対しても冷静に向かい合っている。日本植民地時代の建築物としては現・総統府(旧総督府)などが挙げられるが、各地で政府庁舎、寺社仏閣から博物館、病院などさまざまな建物が保存されており、なかには修復・再建されたものまである。もちろんこれらの動きは日本植民地時代を肯定しようというものでは決してなく、先住民(台湾では「原住民」)、スペイン、オランダによる統治も含めて台湾の歴史として見直そうということだ。
中台の対話チャネル
もう1つ触れておきたいのは、李元総統が極めて現実的な政治家であったことだ。1988年、蒋経国元総統の死去により副総統から昇任したものの、学者出身で党内の権力基盤が脆弱だった李元総統にとって、地方分権、住民の政治参加の促進は民主化の推進であるとともに、自身への政治的支持の調達でもあった。
李元総統は後に中国から、台湾の中国離れ、自立化を進めたとして非難されるようになるが、早期から中国との対話に腐心していた。91年には対中国窓口機関として海峡交流基金会(財団法人格)を設立し、中国側の対台湾窓口機関の海峡両岸関係協会(社団法人格、91年設立)との対話のチャネルをつくった。翌92年には双方が香港で会談、93年には双方のトップがシンガポールで会談している。
あいにく、中国側はこの対話チャネルを数次にわたり閉じており、蔡英文総統の就任後も同様だ。双方、自身の政治的立場は譲れないにしても、往来が頻繁に行われている以上、情報交換・対話が行われて欲しいものだ。
(つづく)
【茅野 雅弘】
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