2024年11月13日( 水 )

【ラスト50kmの攻防(2)】〈長崎ルート〉は停滞、描けないまちづくり

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「紆余曲折」するレールの行先

 「佐賀県は一度も、新幹線の建設を望んだことはない」。佐賀県の山口祥義知事が、長崎新幹線の未着工区間「新鳥栖―武雄温泉間」における環境影響評価(環境アセスメント)実施を拒否する際に、しばしば口にする言い回しの1つだ。

 しかしそれは、「佐賀県フル規格促進議員の会」会長の平原嘉徳佐賀市議が「知事はウソをついている」と主張する根拠の1つになっている。

 話は1985(昭和60)年~86年に遡る。JR九州の前身・国鉄は85年1月、九州新幹線長崎ルートの環境影響評価に着手し86年9月に終了、報告書をまとめた。

 国鉄の報告書案に対する意見を求められた佐賀県の香月熊雄知事(故人)は、86年12月27日付で国鉄下関工事事務所長宛に意見書を提出した。

 意見書は、「新幹線建設については、財源の地域負担の問題、並行在来線の存続の問題など解決されなければならない問題がある」としながらも、「建設反対」の文字はない。

 佐賀県の公文書としても残る。平原氏は、「香月知事はフル規格を前提にした国鉄のアセスを認めて、意見書を提出している。行政の継続性から、山口知事が『新幹線を求めたことはない』と言うのはウソ」と指摘する。

 ただ、このときのルートは新鳥栖から佐賀市付近(佐賀駅)を経由して佐世保市付近を回って長崎駅に入る「早岐ルート」だった。87(昭和62)年4月、国鉄は分割民営化されてJR九州に。分割民営化の狙いは採算性の確立。JR九州は、建設費削減のため佐世保市付近を回らず、武雄市から大村市に抜けて長崎駅に入る「短絡ルート」にした。今のルートだ。

 92年8月に事態が大きく動いた。全国新幹線鉄道整備法(全幹法)の改正で〈新幹線の幅〉が広がり、新幹線直通線(ミニ新幹線)、新幹線鉄道規格新線(スーパー特急)も選択肢になった。全幹法は、新幹線による全国鉄道網の整備が目的だ。しかし一方で財源は限りがある。標準軌新線(フル規格新幹線)以外にメニューを増やし整備速度のアップを考えた。

鳥栖市の〈まちづくり〉は描けないまま

 整備計画が決まった新幹線は5線。当時の優先順位は「東北・盛岡以北が長男、次男は北陸、三男が九州新幹線鹿児島ルート」。“三男”は91(平成3)年9月、新幹線鉄道規格新線(スーパー特急)で八代(後に新八代)―西鹿児島(後に鹿児島中央)間が着工。次に船小屋―新八代間、最後に船小屋―博多間の整備が追加された。

 この間、九州新幹線長崎ルートは足踏み状態。99年3月、自民党佐賀県議だった牟田秀敏氏(故人)が鳥栖市長に就任。JR九州から出向中だった中原義廣氏は身分を鳥栖市に移し、建設部次長兼新幹線対策課長に就いた。当時、新鳥栖駅は長崎ルートの駅として設置される計画で、佐賀県は鹿児島ルートでは通過区間だった。

 「新鳥栖駅が鹿児島ルートの駅として設置されなければ、鳥栖市の発展はない」。そう信じていた中原氏は牟田市長に同行し、〈ミスター新幹線〉の異名があった故・小里貞利衆院議員(鹿児島4区)やリニア新幹線構想を推進した国鉄OBの野沢太三参院議員と精力的に面会。「新鳥栖駅を、将来の長崎ルート建設を担保する意味を込めて鹿児島ルートの駅に追加してほしい」という趣旨だった。

 佐賀県は福岡、熊本、鹿児島各県と「九州新幹線建設促進期成会」をつくり、新幹線建設推進を繰り返し陳情。鳥栖市には若手職員を係長として派遣、支援した。

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 こうして東日本大震災の翌2011年3月12日に、新鳥栖駅は九州新幹線の駅として開業した。ところが、開業10年後も駅舎東口の一帯は市街化調整区域のまま。新幹線駅前としては珍しいゲートボール場があるが、これも景観に配慮した結果だという。まちづくりの青写真を描こうにも、武雄温泉駅までの区間が見通せず、描けない現状がそこにある。

2011年3月に九州新幹線鹿児島ルートの駅として開業した新鳥栖駅。しかし駅舎東口は長崎ルートの先行きが不透明で、新幹線駅前では珍しいゲートボール場(手前)にして景観に配慮している=佐賀県鳥栖市

 

【南里 秀之】

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