評伝・ハウステンボスの創業者、神近義邦氏の死去~大物経済人を虜にする「必殺ジジ殺し」の達人(前)
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長崎県佐世保市の大型リゾート施設「ハウステンボス」創業者の神近義邦(かみちか・よしくに)氏が9月5日、がんのため佐世保市の病院で死去した。享年78歳。
起業家の世界には「必殺ジジ殺し」という言葉がある。若い起業家で大成できる人は、業界の重鎮と呼ばれる大物経済人から可愛がられるという意味だ。神近氏も「必殺ジジ殺し」の達人だ。大物経済人を虜にする幅広い人脈を駆使して、ハウステンボスを立ち上げた。神近氏の経済人脈を振り返ってみよう。最初の転機は東京の高級料亭「一條」の女将・室谷秀との出会い
神近義邦は1941年8月21日、長崎県西彼町(現・西海市)に生まれた。家が貧しかったため、全日制の高校への進学をあきらめ、県立西彼農業高校定時制に進み、2年生のときに、神近家に養子に行った(旧・姓・島田)。卒業後、62年に西彼町役場に就職した。役場での仕事は農業指導だったが、減反政策を推し進める町長と大喧嘩となり長崎県庁の地方課に飛ばされた。
1972年、出向中の神近は大きな転機を迎える。田中角栄首相の列島改造ブームに乗って西彼町の土地約50万m2を買い占めていた老女に出会う。東京・永田町にある高級料亭「一條」の女将・室谷秀(むろや・ひで)である。
乱開発の恐れがあるため、長崎県と西彼町は農地法違反などを楯に、室谷秀に土地から手を引くように説得にかかった。その交渉を命じられたのが、神近だった。困難な交渉だったが、神近の執拗な説得に、室谷秀は折れた。「あなたが好きなように使いなさい」とサジを投げた。
神近が観光農園への転用を提案したところ、室谷秀は土地を提供し、資金の面倒を見ると約束して「観光農園をやってみないか」と誘われた。神近は役場に辞表を提出し、73年、農事法人・グリーンメイクを設立、観光果樹園を始めた。
農園の設備に4,000万円かかったが、室谷秀は一銭も送ってこない。オイルショックが起こり、土地に莫大な投資を行っていた一條は、支払い不能な状態に陥っていたのだ。送金がないため、神近は工事代金を払えなくなった。
青くなって上京した神近は、「何とかしてくれ」とかけ合うが、室谷秀は「ない袖は振れない」と突っぱねる。そして言った。
「娘婿の高橋に頼むしかない。彼に会ってください」室谷秀の娘婿は高橋高見・ミネベア社長である。
「一條」の専務に就き、経営を立て直す
神近は、その足で田園調布の高橋高見邸を訪れたが、「困った親を助けるほど、事業は甘くないぞ!!」と怒り出し、追い返された。それで尻尾をまいて退散するわけにはいかず、神近は再度訪問した。
「この田舎者が、帰れ!」と高橋は怒鳴ったが、今度は神近も一歩も引かない。「親子であり、しかも貴方はサポートできる能力をもっているではないか」と食い下がった。すると、高橋は「キミが一條の経営を立て直して、長崎に送金すればいいではないか」と言った。
高橋の突飛とも思える提案を受け入れて、神近は一條に専務として入った。週日は東京で「一條」の再建に費やし、週末は長崎に帰って観光果樹園の経営に当たるという超人的な二重生活を強いられることになった。
地方からポッと出てきたズブのど素人の神近を仲居や料理人は無視、「何もセンム」と陰口を叩かれた。しかし、神近は、料亭の慣習だった日給月給制を廃止、基本給・歩合給・賞与を支給する待遇改善策を打ち出した。その一方で、土地を処分して1年間で借入金を15億円から5億円に減らした。一條はすぐに息を吹き返し、神近は未払いになっていた4,000万円を回収した。
一條で、神近は経営者として修羅場を経験した。さらに、一條を通じて人脈を得た。一條は永田町という土地柄、政財界人たちが出入りする。神近はここで多くの重要人物たちとの面識を得た。なかでも、長崎県出身の今里廣記・元経団連常任理事、その縁戚で、後に長崎商工会議所会頭となる松田皜一・長崎自動車社長らは後々、青年経営者としての神近を支援する人脈になる。
(つづく)
【森村 和男】
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