2024年12月22日( 日 )

津波被災プラントで九死に一生 恭輔名誉会長・勝美会長の涙

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ゼオライト(株) 常務取締役 松井 真二 氏

 ゼオライト(株)は、現在福岡をはじめ九州、そして全国各地にRO(逆浸透)膜採用の水処理プラントを設置している。同社プラントを設置している宮城県のフジパン仙台工場(宮城県岩沼市)の施工を担当した、当時プラント技術部長で現・常務取締役・松井真二氏。竣工間近の2011年3月11日に東日本大震災を経験した。生命の危機に瀕しながら、どのようにして命を守り、そして同工場を復旧させたのか?松井常務の振り返りを基に、レポートする。

当日午前まで恭輔・勝美夫妻在留

 同社は、製パン大手フジパン(株)の仙台工場(宮城県岩沼市)に設置する水処理プラント施工を受注し、当時プラント工務部長であった松井真二常務取締役が担当した。

 フジパンとの取引のきっかけは、恭輔名誉会長の技術開発力に対して高い信頼を寄せていた、同グループの(株)九州フジパンの取締役九州事業部長であった杉村和則氏との出会いである。杉村氏は現在、フジパングループ本社取締役副社長の重責を担っている。杉村氏は九州フジパンの水処理プラントを同社へ依頼し、業務管理の効率化を実現したことが縁で、フジパンの各拠点の水処理プラントを手がけることとなった。後に杉村氏は、2010年4月に(株)東北フジパンの代表取締役に就任し、同仙台工場の井水および排水などの水処理プラント建設を同社へ発注した。繰り返すが、杉村氏は恭輔名誉会長の水処理技術と品質に高い信頼を寄せて、水処理に関する事項は同社へ一任していた。

 受注後松井常務が同工場施工の責任者として着任し、プラント建設は順調に進み、竣工間近の11年3月9日に恭輔名誉会長と勝美会長(当時は会長・社長)が現地に入った。フジパン関係者への挨拶と竣工前の総チェックのための仙台工場入りであった。恭輔・勝美夫妻は2泊後、3月11日に仙台空港午前9時発の飛行機で、福岡へ帰路についた。そして同日午後2時46分に大震災が発生した。

 松井常務は「3月9日にも到着の1時間前に震度5の地震が発生し、津波50cmが観測されておりました。フジパンさまに設置したプラントのチェックを行っていただきました。私は10日に日帰りで、茨城県の筑波大学付属病院の水処理プラントの現場のチェックに行きました。そして11日の早朝に恭輔・勝美夫妻を仙台空港まで見送りました。そして約6時間後に…。今振り返ると、午前中に仙台を後にされて本当に良かったです」と振り返る。

命からがらの避難

 3月11日の午後2時46分、太平洋三陸沖を震源とした地震が発生。松井常務が受水槽の上に登っていたとき、強い揺れが襲った。揺れが収まった後に工場内を見回ったが、そのときは同社の機械類に被害はなかったという。工場内も大きな被害がなく、薬品タンクからこぼれた薬品を掃除しながら、点検して回った。

 「津波だ!」と叫んだのは、同工場の建築を手がけた(株)ナカノフドー建設の担当者であった。同工場では最終引き渡しの検査関係で工事関係者が約50人、フジパン従業員が約150人の計200人近い人数がいたという。工場の場所は仙台空港に近く、海岸から約1kmである。

 「私は地震発生後、機械室で掃除などをしていました。もう1人の方がテレビでニュースをチェックしていたのですが、『名取川が氾濫した』という情報が入りました。そこは工場のすぐ近くでしたので『ヤバイな』と思い、確認しようと外に出て後ろを見ると、すでにそこには津波がきていたのです。『危ない!』と私たちは、全速力で工場の階段まで走りました。2人が階段を登り終えた後、津波が後ろをかすめ、間一髪で難を逃れた。

 工場2階の窓から下を見ると、濁流が迫ってきた。車、資材など、あらゆるものが飲み込まれていった。「ここにいては危ない」と、松井常務を含め、全員が工場の屋根にまで退避した。松井常務が海の方を見ると、次の津波が迫ってきていた。「また危ない状況になるかもしれない」と、全員が工場の排気口などつかめるところに分散してつかまり、避難した。

 結局、第2波は来ることはなかった(なお、仙台空港近くに車で休憩していた、ある食品会社の1人が、同工場内の屋根に流され上げられた。松井常務たちは、すぐに救助して行動をともにしたという。後日談として、当該の食品会社の重役から松井常務へ直々に御礼の連絡があり、現在も連絡を取り合う縁となっている)。

 夕方、屋根に登っていた全員2階へと降りた。無事だったパンのなかからきれいなものを選び、みんなで飢えをしのいだ。そして真っ暗ななか、2階倉庫の奥でダンボールを敷いて一夜を明かした。

 3月12日、みんなで避難所へと移動を開始した。水はまだ引かず、腰付近まであったという。辺りはガレキや泥だらけのため、足にビニール袋を巻き、土手に沿って歩いた。避難所は近くの舘腰小学校で、通常徒歩10分のところ、約5時間要して到着した。被災から2日目の夜は、同小学校の避難所で過ごした。「工場から移動するまでの間、地獄絵図を見ながらでした。まさに命からがらでした。舘腰小学校に着いてホッとしました。避難所への途中、地元のご婦人からの炊き出しのおにぎりを口にした瞬間、涙が自然と溢れました」(松井常務)。

 松井常務は、3月16日まで避難所で過ごした。ようやく帰るメドが付いた。同工場の電気設備工事を受け持つ工藤電業(仙台市)の関係者に自動車で福島空港まで車で送ってもらい、そこから札幌、羽田と経由して、同日無事に福岡へとたどり着いた。「工藤電業さんへの連絡を含め、一切の手配を嶋村社長がしてくださりました」(松井常務)。夜遅くに同社本社に着いた松井常務。恭輔・勝美夫妻は出迎え時に号泣しながら「よく頑張った。ありがとう」と寄り添い、帰還を労った。

遺志を引き継ぎ 懸命に働くこと

 後に松井常務は3月末には再び、フジパン仙台工場に入った。周辺のガレキや泥をかき出し、整備することからスタートした。関係者とともに、懸命に復旧とともに水処理プラントの復旧にとりかかった。同社初のオゾンを使用した最高の排水プラントを設置した。引き渡しまでに約6カ月を要した後、8月に無事引き渡した。

 松井氏は現在本社にて経営陣の一役を担い、嶋村社長の右腕として活躍中だ。フジパン仙台工場へ行く機会は減ったものの、「やはり思い入れがある案件です。間一髪で救われた命です。今生かされていることに心より感謝して、恭輔名誉会長の遺志を引き継いで懸命に働いて、良い水創り・人財(ひと)創りを通して、社会に貢献していく所存です」(松井常務)。

 恭輔氏の思い出を胸に決意を固めている。

【河原 清明】

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