本社売却、史上最大の赤字・・・大きく揺れる電通(2)
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「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす 奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし、猛き者もついにほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ」(平家物語)。
新型コロナウイルスの猛威に晒され、再び緊急事態宣言に揺れるなか、衝撃的なニュースが飛び込んできた。広告業界の巨人・電通グループが、ステータスシンボルとしてきた本社ビルを売却するというのだ。「猛き者もついにほろびぬ」。「電通王国」崩壊の鐘の声か。汐留本社ビル3,000億円売却の衝撃
「電通、本社ビル売却検討」。日本経済新聞電子版(1月20日付)が報じた。売却額は国内の不動産取引として過去最大級の3,000億円規模になるとみられている。みずほ系不動産会社のヒューリックが優先交渉権を得て、3カ月をメドに買収交渉を始めている。
売却するのは、東京港区汐留のオフィス街にある電通本社ビル。面積5,200坪という広大な敷地にそびえ立つ地上48階建て、高さ213mの超高層ビル。高層部のスカイレストラン、低層部の商業施設部分や劇団四季の常設専門劇場「海」、広告資料館アドミュージアム東京など「カレッタ汐留」と呼ばれる部分を含め、延床面積は7万坪を超える。旧国鉄・汐留貨物跡地の再開発により2002年12月に開業した。
電通が、その本社ビルを売却するうえで前提としているのが、セール・アンド・リースバックの活用。企業が所有、使用している建物を売却した後、買い主から期間を定めて借り戻す(リースバック)というスキームだ。建物の使用を続けたまま資金調達ができるというメリットがある。
電通といえば、東京五輪でマーケティング専門代理店に任命された広告会社。東京大会の企画や宣伝活動の中心的役割をはたす、いわば東京五輪のタクトを振る会社だ。それなのに、東京五輪の開催直前に電通本社ビルを売却する。SNSで「東京五輪はやっぱり中止、電通はいよいよカネに困ってビルを叩き売る」と大騒ぎになったのも無理はなかった。
「電通の天皇」と呼ばれた第9代社長、成田豊氏
汐留の電通本社ビルは、電通の歴史のなかで大きな意味をもつ。電通には、「鬼」や「天皇」がいる。「電通の天皇」と呼ばれたのが(故)成田豊氏。
「広告と電通を一流の存在にして世間に認められること」に執念を燃やした。東京大学法学部卒業時、結核の既往症から海運、鉱山、鉄道など当時一流とされた企業への就職に失敗。1953年、「不本意ながら」電通に入社。日本の広告業界の礎を築いた第4代社長・吉田秀雄氏の薫陶を受けて頭角を現した。吉田氏は、電通マンの行動規範といえる「鬼十則」をつくり、「広告の鬼」と呼ばれた怪物経営者だ。
勇将の下に弱卒なし。成田氏は上層部の反対を押し切ってスポーツビジネスを推進し、大きな柱に育てた。93年に9代社長に就任。02年から会長を務め、04年最高顧問、10年名誉相談役、11年に82歳で亡くなった。この間、「電通の天皇」として君臨した。
01年11月、創業100周年の節目に東証1部に株式を上場。翌02年12月、汐留地区の再開発「汐留シオサイト」の先陣を切り、本社ビルを開業。都内に散らばっていた事業部を本社ビルに集約した。当時、会長だった成田豊氏は竣工の日に「東京の新しい情報・文化の発信地として発信していく」と挨拶している。まさに“電通の顏”ともいえるビルだ。
02年には、フランスに本拠を置く世界3位の規模を持つ広告代理店ピュブリシスと資本提携を結んだ。電通の株式を公開し、汐留本社ビルを建て、グローバル化に舵を切った。今の電通の方向性を決めたのは「天皇」成田豊氏と言っても過言ではない。
(つづく)
【森村 和男】
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