2024年11月05日( 火 )

【緊急寄稿】読売記者のパワハラ告発について

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毎日新聞社元記者 山下 誠吾 氏

NetIBNewsで6月10日に掲載した記事「【内部告発】読売新聞社で悪質なパワハラ被害 社内ではうつ病蔓延」に関して元毎日新聞記者の山下誠吾氏から投稿があった。以下に全文を掲載する。

「歩くパワハラ」人間が横行

 毎日新聞社に30年勤め退職した者です。今回、読売新聞社の内部告発に関する問題提起を読み、今でも新聞社にこうしたパワハラ上司がいたことに驚き、また同時に、告発記者の側にも若干の違和感を覚えましたので、私見を述べようと思います。

 新聞社という組織には、昔は「歩くパワハラ」とでも形容すべき人間が横行していました。バカ、アホ呼ばわりはしょっちゅう、怒鳴り、舌打ち、電話ガチャ切り、机叩き、ゴミ箱蹴り、などなど。しかし、パワハラめいた言動も、発する側と受け取る側の信頼関係によってはなんら問題のないやり取りとなり得ます。私がまだ駆け出しのころ、同僚の一人は豪雨災害現場に急行し、そこでカメラを持参し忘れたことに気づきます(新人記者時代によくやるミスです)。撮影機能のあるスマホもない時代です。今にも氾濫しそうな川の濁流を見ても、どうすることもできません。おずおずと自らの忘れ物を告げる同僚にデスクが投げつけた言葉は「バカヤロー、その川に飛び込んで死んでしまえ」でした。もちろん同僚は死んでなんかいません。そのデスクを恨んでもいませんでした。今なら「一発退場」になりうる文言ですが、そうならなかったのは信頼関係があったからでしょう。そういう時代だった、ともいえそうです。

 一方、信頼関係がない本物のパワハラは救いがありません。私自身、何度か被害を受けました。加害者にはなっていないと思っています(知らず知らず他人を傷つけた可能性は否定できません。もしあったとしたらごめんなさい。といっても今さら詮無い話ですが)。パワハラで一番きついのは、皆の前で罵倒されることです。私に恥をかかせることで自分の優位性を誇示して悦に入っている。そう思うと、「この野郎、いつか殺してやる」と物騒な妄念に身を焼かれたことも正直、あります。もちろん殺しちゃいませんが、今も思い起こすと憤りに体が震えることがあります。

 新聞社は厳しい世界でした。書けない記者は記者ではありません。書くためには取材するしかない。それこそ休みもなく、取材先に体当たりし、それでもデスクに「へたくそ」と怒鳴られながら仕事を覚えていく。その最中にはパワハラなんぞいくらでもあったでしょう。そのことをどうこう言う方がおかしかった。かまっちゃいられない、嫌ならやめちまえ、です。しかし、今はそんな時代ではありません。「若い者を怒るな」「やめさせてはならん」……。私が管理職になった十年ぐらい前から、そんなことが言われだしました。上司と部下でも他人を侮辱していいわけがない。真っ当になったのだと思います。怒鳴るな、舌打ちするな、褒めて育てよ……。真っ当を通り越してぬるいと感じることさえある、まあ、いいんですが。若いころは「やめちまえ」と言われ、管理職になると「やめさせるな」と言われる。本当に損な世代だと思います。

告発文に「違和感」

 思い出話と冗談はさておき、本論に入りましょう。

 前述したようにパワハラの定義はけっこう難しい。が、告発者のいうUデスクによる部下いびりは、パワハラといえるとしましょう。しかし、だからなんなのか。パワハラはそれ自体、まずは社内的な問題でしょう。今はどこの企業も社内にパワハラなどの相談に応じる部署を設けていますが、そこへの訴えはしたのでしょうか。その結果、どうなったのか。明らかではありません。告発文には「隠蔽が行われています」とあります。「隠蔽」という強い言葉を使うからには、それ相応の証拠と、告発者の覚悟がいるのです。

 私がいた新聞社でもそうですが、今や新人記者でもメール1本で人事部長や編集局長、どうかすれば社長にまで直訴できる時代です。だから、妙なことを言うようですが、パワハラはやる側にも覚悟がいる。その意味でUデスクは珍しい存在です(褒めているわけではありません)。パワハラをする人間は上には媚びへつらう性質の者が少なくないので、そういう事情で処分されにくいのかもしれません(とにかく何年もパワハラを続けられるのが不思議です)。告発文には複数名のパワハラ被害者が挙げられていますが、それらの人たちで結束して訴えるようなことはしたのでしょうか。前述した「隠蔽」とともに、告発文では明らかではありません。告発者の行動がないままに「不正を正してください」と哀願するからコダマ氏に「覚悟がない」と怒られるのです。

 私は怒りはしませんが、前述したように告発文には少なからず違和感を覚えました。メディアは、パワハラにせよセクハラにせよ、告発をそのまま信じて掲載するわけにはいきません。告発者、被害者、加害者ら関係者すべてに取材し、何日も、時には何カ月もかけて話を聞き取り、被害者に寄り添う姿勢でその心情を理解する一方、状況を突き放して事実を俯瞰する冷静さをもって記事化する。そのように苦労して取材しても記事にならないことも少なくありません。厳しい作業です。その厳しさを引き受けてくれと言っている。だから、私は告発文のような文章を「甘い」と感じます。

 仕事のつらさ。それは多くの場合、本来の業務ではなく、ともに働く人間関係のつらさです。パワハラはその最たるものでしょう。復讐心を燃やす思いは分かります。パワハラはまず社内で解決すべきもの、と言いましたが、読売新聞社がその体質に染まり、組織ぐるみで有望な人材を傷つけるパワハラを放置、隠蔽しているのなら、これは「社会悪」といえるでしょう。社会悪として告発することを選ぶのならば、メディアの人間らしく、それ自体で記事として通用するような告発文を書いてデータ・マックスに寄稿したらいい。今からでもやってみたらどうですか。そういうことであれば、「戦わないのなら、なぜ新聞記者になったのか」と怒るコダマ氏も納得するのではないでしょうか。

 「記者は結局、書いてなんぼなんだよね」。尊敬する先輩記者の言葉がたった今、よみがえってきました。

【山下 誠吾】

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