2024年11月24日( 日 )

さらば、新自由主義~2度目の「焼け野原」から立ち上がるために(4)

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ライター 黒川 晶

新自由主義の台頭

 新自由主義は、オーストリア学派の経済学者フリードリヒ・ハイエク(1899-1992)の自由主義思想の流れを汲み、70年代にケインズ主義を批判しながら台頭した、「政府による民業への介入を極小化し、社会経済システムの完全民営化による、自由な社会的競争条件こそが、市民的自由を保証するというテーゼ」(池田光穂氏)である。

 世界恐慌下の資本主義の危機への処方箋を提供し、第二次大戦後に経済成長を遂げる西側諸国の経済・社会政策を支えたのは、国家権力による市場のコントロールを主旨とするジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)の経済学であった。市場は本質的に不安定なものであって自己調整機能をもたないという市場観に立脚し、これを安定的に機能させて経済を持続的に発展させるために、政府が公共事業を通じた需要喚起と雇用創出、そして財政金融政策による景気循環の制御を行う。加えて、さまざまな規制を設けて企業による放縦な利益追求に一定の歯止めをかけると同時に、種々の福祉制度の構築を通じて勤労大衆の生活基盤を支える。「ケインズ主義的福祉国家」とも呼ばれる、国家運営の在り方である。

新芽 イメージ かつて国内市場の脆弱さ(=国内の労働者の購買力の弱さ)が列強を帝国主義的政策に走らせ、それが悲惨な世界大戦を二度も引き起こしたという反省から、何より、「平等と福祉」をうたう社会主義陣営に対して資本主義陣営の正当性を示す必要性から、模索され整備された国家の在り方であった。実際、それは資本家の意識も変えた。すなわち、従来搾取の対象であった労働者を潜在的消費者とみなし、その購買力を高めるために比較的高い賃金を払うことは企業の利益にかなうという考え方――米フォード社がその嚆矢となったことから「フォーディズム」と呼ばれる――が広まったのである。資本主義先進諸国が、何より戦後の新生日本が、これによって目ざましい経済成長と社会的安定を実現したことは周知の通りである。

 ところが、1970年代の二度のオイルショックが状況を一変させる。石油価格の急騰で企業収益は悪化し、失業率とインフレ率が各地で急上昇。ハイパーインフレと不況とが同時に進行する「スタグフレーション」が世界的規模で発生した。各国の財政は税収急落に加えて社会支出がうなぎ上りに増大し、次々危機に陥っていく。ミルトン・フリードマン(1912-2006)を中心とする新自由主義者らがケインズ経済学に猛攻撃をかけたのは、まさにこの時だった。

 彼らの主張はこうである。このような事態に陥ったのも、ケインズの雇用・物価理論、つまり失業率と物価上昇率のトレード・オフ関係を説明する理論が非現実的だったためだ。そもそも国家が市場を完全に把握することなど不可能である。むしろ、個々の経済主体が自らの利益になるよう合理的判断に基づいて行動することで「市場の見えざる手」が働き、結果として社会全体における適切な資源配分がなさるだろう。そのため、国家による介入は物価安定のため貨幣量の増加率を一定に固定することにとどめるべきである。そして、企業間であろうと国家間であろうと、資本の自由な運動を妨げるあらゆる規制や障壁を取り払い、企業やビジネス界の力を解き放て、と。

 この主張は、財団やシンクタンクを介した国際金融資本や多国籍企業の強力な支援も得て、学界において主導的地位を獲得するに至る。そして、1980年代初頭のマーガレット・サッチャー英政権とロナルド・レーガン米政権を皮切りに、各国で政策として取り入れられていくのである。日本では、バブル崩壊の後遺症に悩む90年代後半に橋本内閣の「金融ビッグバン」というかたちで、次いで、2001年発足の小泉内閣が掲げた「聖域なき構造改革」を通じて、新自由主義的諸改革が押し進められた。長引く不況を脱し、グローバル市場経済という「世界大戦」を勝ち抜くために。

(つづく)

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