【コロナで明暗企業(7)】SGホールディングス~親族間の抗争を勝ち抜いてきた創業家の栗和田会長が社長に復帰(4)
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青いしま模様のユニフォームでおなじみの佐川急便を傘下にもつSGホールディングス。新型コロナウイルスの感染拡大で巣ごもり消費が増え、業績が絶好調な同社で衝撃的な人事があった。好業績を花道に引退すると思われていた創業家出身の栗和田榮一会長が社長に復帰する。再々登板だ。親族間の激烈な抗争を勝ち抜いてきた怪物経営者である。
創業者・佐川会長が辞任、急遽、栗和田氏が社長に
1992年、東京佐川急便事件の責任を取り、当時会長職だった佐川清氏は会長を辞任。後継者と目されていた佐川急便の持ち株会社である清和商事の社長であった佐川正明氏(佐川清氏の後妻の長男)も退任したため、急遽、栗和田氏が佐川急便社長に就いた。
社員に対し、労働基準法を無視した超長時間労働を強いていた父とは反対に、コンプライアンスに基づく経営を行い、社員を使い捨てにする傾向が強かった社風を一新する。
しかし、労働環境が改善された半面、佐川急便の売りだった高収入も半減した。ワタミ創業者の渡邉美樹氏が運転手として開業資金を貯めたように、かつての佐川急便は、仕事はきつくても頑張れば月100万円近い収入が得られた。高収入を得るために過酷な長時間労働にも耐えているのに、超長時間労働を廃止したため、高収入は得られない。これに不満の声が高まった。栗和田氏の経営方針に対して、創業者の佐川清氏および、その番頭格だった旧経営陣と栗和田氏の対立が深まる。
佐川清氏の番頭たちが仕掛けたクーデターを返り討ち
2000年6月3日に開催された佐川急便の取締役会で、栗和田社長の解任と再任が決まるという異常事態が発生した。取締役は18人。社長派と反社長派は9対9で真っ二つにわかれていた。
まず、佐川清氏の意向を受けた境保・湊川両副社長ら反社長派が、代表権をもつ社長の解任動議を提出。当事者には投票権がないため、賛成9人、反対8人で、栗和田氏の解任が決定。一時はクーデターが成功したかに思われた。
ところが、その報復といわんばかりに、社長派から代表権をもつ境氏と湊川氏の解任動議が提出され、こちらも解任が決定。この時点では代表権をもつ取締役は、副社長・佐川光氏(佐川清氏の後妻の次男)1人になった。
続く次期社長の選任では、反社長派から光氏の社長就任を提議。9対9で同数だったが、社長派が当事者である光氏には投票権がないことを主張。これを認めさせ、光氏の社長就任を否決した。
次に、解任されたばかりの栗和田氏の再任動議が出され、却下されると思いきや、再任が決定した。社長派による反社長派の切り崩し工作が行われ、役員2人が社長派に寝返り、栗和田氏の社長再任が可決された。
創業者の佐川清氏=旧経営陣は、栗和田氏の解任を仕掛けたが返り討ちにあった。旧経営陣によるクーデターは失敗した。
当時の佐川清氏ら佐川一族の佐川急便株の保有比率は計20%程度。2000年6月19日の定時株主総会で再度、バックに控える清氏の反社長派の巻き返しがあるのではないかと予想された。しかし、清氏と光氏は株主総会を欠席。とくに波乱は起きず、境氏と湊川氏は取締役を解任。株主総会後の取締役会で、光氏の代表権を外すことを決定した。
この結果、代表権をもつのは栗和田氏ただ1人となった。クーデターが失敗しただけでなく、創業者の佐川清氏の影響力は一掃され、栗和田氏が佐川急便の経営権を掌握した。東京佐川急便事件の後処理のため、急遽、リリーフ登板した栗和田氏が全面勝利したのである。
栗和田氏は各地に散らばっていた法人を統合し、06年にSGホールディングスを中心とする持ち株会社体制に移行。07年には会社の象徴だった「飛脚」マークも廃止した。背景には、特殊な会社と見られがちな佐川を「普通の会社」にしたいという思いがあった。
「普通の会社」になる総仕上げが、17年12月13日、東証一部に上場したことだ。東京佐川急便事件で、グループは解体、消滅しかかった。それから四半世紀を経て、ようやく節目の上場に漕ぎ着けた。
上場会社として好業績を背景に、経営の第一線から退くと思われたため、栗和田会長の社長復帰はサプライズであった。唯一残された創業家としては、「普通の会社」になる決断に踏み切れるものではなかったようだ。
(了)
【森村 和男】
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