2024年11月23日( 土 )

【経営者事業魂の明暗(4)】嗚呼、君は逝った。出口守君よ!<追悼文>

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10年の闘病生活

三共電気 代表取締役会長 出口 守 氏 三共電気(福岡市西区)の創業者で代表取締役会長・出口守氏が8月29日に逝去した。71歳であった。31日夕方、天国社姪浜斎場(西区姪浜)にてお通夜が行われた。コロナ禍のため自粛のなかでのお別れ会であったが、参拝者たちは密に配慮して三々五々駆けつけた。200束以上の花が供えられており、生前の故人の経営者としての実績を示していた。故人の経営の原点はお名前の通り正にディフェンス(守)にあった(後述する)。最後に拝顔した際、顔つきが細くなったと感じたが、穏やかな佇まいで悔いのない人生を貫いたという意思は伝わってきた。

 出口氏はスポーツマンで頑強な身体の持ち主であり、自制した生活を送ってきた。しかし、50代後半から糖尿病が悪化し、60代に入ってから本格的な闘病生活を送った。大動脈解離のため大手術を受けた。その後に肺がんの摘出手術を受けたが、厄介なことに腫瘤が大動脈の裏側に位置しており、生死背中合わせの状況であった。この1年、入退院を繰り返していたが、体調がよいときに出社していた。やはり会社の行く末を心配していたのであろう。現在、木原和英社長の采配により経営は順調だ。だから故人は安心して天に召されたまえ!

25歳で独立

 出口氏は関西電業(現・(株)カンサイホールディングス)で勤務した後、25歳で独立した。1975年6月のことである。夫婦で一心不乱、早朝から夜遅くまで商売に励んできた。ところが79年ころに大口の焦げ付き(約5,500万円)が発生した。筆者は調査マンとしての取材で出口氏に初めて会うことになる。当時、『特別情報』という情報紙で「三共電気大口焦げ付き」と報じた。出口氏は怒り、「俺は絶対、潰さないからな。見ていろ」と罵声を浴びせられた。

 出口氏は和子夫人の実家からの支援、得意先からの資金援助などで急場を凌いだ。この粘り腰の戦いぶりには非常に感動した。筆者は「よし、三共電気の得意先管理を引き受けよう」と決意したのである。そこから40年間におよぶ付き合いが始まった。創業から15年間、90年までは事業基盤を構築した奮闘期であった。三共電気の躍進は業界でも注目を浴びるようになった。

 苦難・苦渋の15年を経て三共電気は充実期を迎えることができた。バブル崩壊をうまく乗り切り、会社の基盤を安定させた背景には出口氏の孤軍奮闘があったからだ。朝7時前に出社してスケジュールを確認し、他の営業所に電話を入れる。午前中、10時には顧客回りを始める。当時、中洲で飲んだ際に「もう2度と大口焦げ付きを発生させることはしない」としみじみと決意を語ってくれた。

 その際に痛烈な皮肉を一発食らった。「焦げ付きが発生すれば貴方から危ないと書かれるからな」と。故人の経営の基本スタイルは名前が示す通り“守り”であった。“守り”の要諦は得意先管理だけではなく、内部統制を怠ってはならないと考え、内部にも油断することなくチェックを入れていた。こうして苦労を重ねた結果、電材業界の2番手の地位を確立したのは2000年前後であっただろう。起業する者のうち10年持ち堪えられるのは5%といわれているが、出口氏の奮闘ぶりは起業家のお手本になるだろう。

筆者も発奮し、独立する

三共電気 代表取締役会長 出口 守 氏 1990年から2000年ころ、よく一緒にゴルフ(雷山ゴルフ場)をし、海外視察旅行に出かけた。一番の思い出は中国・大連市視察だ。三共電気の顧客海外ツアーにも筆者の愚妻が数回参加させてもらった。また、T社の経営者という経営上の共通の師匠が現れた。この人から業界のこと、中小企業の経営の裏表を学んだ。出口氏もこのT社社長に気に入られ、最大の得意先になったのである。

 出口氏が事業に傾注し奮闘する姿に接しているうちに「俺も調査会社を起こそうか」という野望に燃え始めたのは1990年前後と記憶する。「人さまの経営の論評ばかりしていても人間の器量は大きくならない。出口社長と対等な関係を築くには俺自身がリスクを背負って事業主になるしかない」と核心的な覚悟が定まった。

 1994年の夏、事業を起こす決意を固めた。最初の心得として「人さまの経営を論評してきた者が会社を潰しては洒落にもならない。潰さないためには大きな資本でスタートすることが必要だ。資本金1億円の会社を設立すれば潰れることはない」という結論に至った。「自己資金5,000万円、オーナー経営者から5,000万円調達」という構図を描いたのである。姑息に51%を押さえようという気持ちは毛頭なかった。

 出口氏に500万円の出資を申し込んだ。「コダマさんもそろそろ独立するだろうと予測はしていた。出資はOKだよ!」と即答してくれたことに非常に感激した。この事実1つとっても、出口氏は筆者よりも2歳年下でありながら関係において先輩格であり、本当にお世話になりっぱなしであった。

 人生最後の10年間は闘病で辛い思い出ばかりであっただろう。5カ月前から携帯に返事がなくなっており、別れという最悪の覚悟はしていた。
 出口守さん!本当にお世話になりました。中小企業経営者の見本として付き合いさせていただいたことを、記憶に残させていただきます。

 合掌。

(3)-(後)
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