2024年11月24日( 日 )

【凡学一生の優しい法律学】工藤会総裁の死刑判決について

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

(1)刑法理論や憲法の人権規定を無視した「大岡裁き」・冤罪判決

 工藤会という反社会的集団が市民に対して数々の暴力・犯罪行為を行い、厳しい法の裁きを受けるべき反社集団であることを否定する者は誰もいない。しかし、その厳しい法の裁きを受ける人は工藤会の構成員というだけではなく、犯罪の実行者でなければならない。犯罪の実行者と認定されるためには、厳格な科学的立証によって、犯罪が特定されなければならない。

 世論は工藤会の反社会的行為を憎むあまり、工藤会の構成員であれば、十分な証拠もなく断罪してしまう。検察官や裁判官が、「罪を憎むあまり、人まで憎んでしまう」という庶民の感情に乗じて、刑法理論や憲法の人権規定を無視して極刑判決を下したのが、今回の死刑判決である。

(2)刑法理論の保護機能

法廷 イメージ 刑法理論が精緻に構築されている大きな理由の1つは、被疑者・被告人の人権の保護であることを日本の教育では教えない。現代の日本の刑法学では「大岡裁き」すなわち「権威主義的」な刑事裁判はあってはならない。権威主義的刑事裁判とは、裁判官に絶対的な事実認定権を認め、裁判官が採証法則(証拠資料からある事実を判断するルール)や科学的な論理を平然と無視することを認めるものだ。これは「推認」と呼ばれ、すでに分かっていることから推測し、ある事柄が事実だろうと認めることである。

 刑事裁判では、「厳格な証明」が要求される。刑事裁判で有罪の証拠を提出する義務があるのは検察官であるため、検察官の提出した証拠による立証が「厳格な証明」でなければならない。「厳格な証明」とは、認定する論理が客観的かつ普遍的であることが要求される。つまり、裁判官の「推認」では、誰も裁判官の脳裏のなかにのみ存在する「推理された論理」を知ることはできない。

 裁判官が「推認」を連発した背景には、検察官の提出した証拠が客観的な証拠でなかったためだ。このような「お粗末な」立証を否定するどころか、容認する姿勢こそ、日本の心ある刑法学者が「検察官司法」として批判してきた裁判官と検察官の「談合刑事司法」だ。「談合刑事司法」は99.9%の有罪率を誇る。そういう意味で、今回の工藤会総裁・野村悟被告の死刑判決は典型的な冤罪事件にみられるすべての特徴を備えている。

(3)事件に関する刑法理論の問題

 刑法理論での「共犯論」の基本は、「実行」共同正犯(2人以上で共同で犯罪を実行すること)である。しかし、社会生活が多様化して犯罪が組織的かつ集団的になってきた今では、「共謀」共同正犯論が提唱され、いわゆる組織犯罪、集団犯罪に対処してきた。犯罪現場にいなくても、共同で犯罪を実行したと評価される場合、その者を共謀共同正犯と認定するものだ。

 ただし、刑法理論には、正犯(自ら犯罪を行った人)と従犯(犯罪を手助けした人)、さらに間接正犯(他人の行為を利用して犯罪目的を実現させること、とくに「故意ある道具を使った間接正犯」)という概念もある。さまざまな複数犯概念が存在するが、それぞれの構成要件は微妙に異なり、実際の証拠の評価によって区分される。

 工藤会は鉄の組織で総裁の命令は絶対であるため、子分が総裁の命令なく行動することはあり得なく、漁協組合長(当時)・上野忠義氏を拳銃により殺害したことは総裁の命令によるものと「推認」されるというのが、判旨の骨子である。しかし、この「推認」論理であれば、犯罪を実行した子分には法を守るはずだと期待することはできず、総裁は「故意ある道具」を使用した間接正犯であり、子分を罪に問うことはできない。

 共謀共同正犯は、武闘派学生組織が、対立する学生組織に対して「内ゲバ」を仕掛けた場合や、実際の襲撃に参加しなかった武闘派学生の一員が「襲撃計画」の謀議に参加していた場合などに刑事責任を問われることだ。必ずしもリーダーである必要はない。

 暴力団内部における意思の伝達の方法は千差万別だと考えられる。総裁は利権の獲得が目的であるため、適当な畏怖や苦痛を対象者に与えることで足りると考えて、「かわいがってやれ」「やきをいれてやれ」という程度の命令をした可能性もある。また、それさえも口に出して伝えたのではなく、子分が忖度したことも考えられる。

 重大な殺人を命令したと認定するには、それ相当の証拠が必要である。殺人命令を「推認」で認定し、しかも死刑判決の理由にするなど、法治国の刑事司法としてはあるまじき暴挙だ。

(4)刑事裁判の本質的限界

 被疑者・被告人の人権を守るために刑法理論や刑事手続きが厳格になることは歴史の必然であり、その反面、重大犯罪に対して処罰するべきだという社会の欲求は極大化する。刑事司法はこのはざまにあるため、限界があることを国民は理解しなければならない。

 ただし、犯罪学、犯罪予防学は、刑事裁判手続きのみに犯罪の抑止を期待するのではなく、広く、犯罪の原因を究明し、対策を考える。

 工藤会の一連の極悪卑劣な犯罪行為の背景には、暴力団が公共事業の利権に乗り出したことがあるため、公共事業の発注の在り方や受注者の資格制限などによって、工藤会の資金源とならない工夫を行ったほうがよほど自然であり、効果的だったのではないかと思われる。

関連キーワード

関連記事