2024年12月24日( 火 )

都市福岡の国際化へ、2022年は攻守強化「元年」(前)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 古くから「商都・博多」として繁栄し、1980年代半ばからは「アジアの玄関口」の位置づけで栄えてきた福岡。今後は国際都市への飛躍が期待される。そのカギを握るのが、世界に通用する金融集団やIRの誘致、それを視野に入れたリゾート開発など。2022年は国際都市化へ向けて、時代の流れをつかめるかどうかが試される1年になりそうだ。

両極端の悲喜こもごもの認識

福岡 イメージ    2021年末、不動産・建設業者を集中的に回った。どの経営者たちも異口同音の楽天的な先行きを述べる。ある関係者は、「業界全体でこんなに恵まれた環境が持続してきたことは過去に例がない。だから、先行きに対して警戒感をもつことが肝要だ。しかし、同業者たちは腹のなかでは、福岡市および都市圏の人口が毎年2.5万人増えているため、仕事が減ることはないだろうと楽観している」と語る。この能天気さには驚く。好環境を維持するためには、さまざまなテコ入れが必要なことをまったく認識していないようだ。

 一方、先見の明がある経営者は危機感を抱いている。天神4丁目の自社ビル12階から天神再開発のビル建築を眺めながら、「私はオフィスビルのテナントが埋まらず、のた打ち回る夢ばかり見ます。正直、供給過多を恐れています。児玉さんはどう思われますか」と投げかけられた。それに対して筆者は、「都市福岡の国際化のスピードを速めることです。“ジゴロ”の経営者たちは海外の投資家や企業家が都市福岡に食指を動かしていることをまったくご存じない。情けない。やり方次第では海外投資家たちが空きオフィスを埋めてくれますよ。安心してください」と激励した。国際化へ向けた政策立案と実行次第なのである。

世界に対して福岡がはたす役割の歴史

 1985年前後から「アジアの玄関口としての福岡」というスローガンが叫ばれ出した。おそらく当時の桑原敬一福岡市長が言い出したのだろう。「何が国際都市・福岡か!」と“ジゴロ”は反発し鼻で笑った。それから20年余りで、インバウンドの訪日客が押しかけるようになった。中国からのクルーズ船寄港回数も全国1位を記録するようになったのである。コロナ禍で勢いを失ったものの、「アジアの玄関口」としての実績は着々と築かれてきた。

 次に、もっと古い時代に遡ってみる。平安時代に博多に「鴻臚館(こうろかん)」が設置されたことは広く知られている。大陸から政府要人が博多港に上陸した際に、鴻臚館はその接待と入国手続きの場であった。そこから大宰府政庁へ送り込んだ。大宰府は当時の日本政府“西日本支社”の位置づけで、その玄関口を博多が担っていた。つまり、古くから「アジアの玄関口」としての機能があったわけだ。ただし、それは国家の出先機関の役割に過ぎなかった。

 「商都・博多」として繁栄したのは、12世紀から16世紀までの約500年間。平清盛が君臨した12世紀半ばには、宋との貿易が盛んになった。日宋貿易の中核的な役割を博多港が担った。これを起点に、スペインやポルトガルからキリスト教の布教や商取引を求めて押しかけてくるようになり、「商都・博多」は日本の最先端を独走していた。しかし、江戸幕府の鎖国政策により、博多の繁栄と威厳は喪失していく。

 「商都・博多」の繁栄のピークは13世紀半ばといわれる。元寇の役(蒙古来襲)前後の時期にあたる。博多の街(現在の櫛田神社周辺、店屋町、冷泉町、祇園町、御供所町、上呉服町)には、1万人以上の外国人(中国人、東南アジアの人々、一部黒人)が生活していた。中世の博多は海外との交流によって繁盛していたという史実が残されている。「海外に開かれた町」を築いたのは歴史的な遺産といえる。

(つづく)

(中)

関連記事