西武HDの「コロナ敗戦」、所有と運営を分離(3)
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西武ホールディングスは鉄道大手のなかで、新型コロナウイルスの影響を最も受けた私鉄の一つで、2020年、21年の2年間、コロナ禍で塗炭の苦しみを味わった。日本最大級のホテルチェーン、プリンスホテルの宿泊需要が“蒸発”してしまったからだ。同社は「コロナ敗戦」による事業の再構築を図るべく、プリンスホテルやレジャー施設を売却し、「所有」と「運営」を分離する。
後藤氏は、第一勧銀の改革派「4人組」の1人
後藤高志氏は1949年2月15日生まれの73歳。東京大学経済学部を卒業して、(株)第一勧業銀行(現・(株)みずほ銀行)に入行。数々の修羅場を歩いてきた。
後藤氏は1977年に発覚した総会屋への利益供与事件で行内改革に携った。当時、中堅幹部たちは、第一勧銀そのものが存亡の危機にあると感じていた。後藤氏は職を賭して、行内改革に立ち上がる。
「4人組」――。企画部副部長・後藤高志氏(72年入行)、企画部次長・藤原立嗣氏(76年)、広報部長・八星篤氏(72年)、広報部次長・小畠晴喜氏(77年)という企画・広報畑の改革派中堅幹部の4人は、毛沢東時代の末期に中国の実権を握った若手グループになぞらえて、そう呼ばれた。
第一勧銀が、相談役5人と会長、正副頭取、専務、常務、取締役ら計26人の大粛清を決断した背後には、経営陣の大刷新を求める4人組の強い意志があった。
第一勧銀は4人組が実権を握った。その“ご威光”は、戦前の陸軍で統制派と呼ばれた中堅将校さながらであったという。4人組は総会屋など反社会的勢力から銀行を救った功労者として出世を遂げる。当然、やっかみも多かった。
第一勧銀は2000年10月、(株)富士銀行、(株)日本興業銀行と共同で設立する金融持株会社の傘下に入った。02年4月、世界最大の(株)みずほフィナンシャルグループの子会社として再編された。3行による熾烈な派閥抗争の結果、富士銀=興銀連合が勝利し、第一勧銀は完敗した。正論派の4人組は新体制のもとで居場所がなくなり、小畠晴喜氏は江上剛のペンネームで作家に転身した。
後藤氏は4人組のリーダー格で、高杉良の小説『金融腐食列島2 呪縛』や、役所広司主演の映画版のモデルとなった人物だ。
後藤氏は(株)みずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)副頭取となり、次期頭取を目前にしていたが、05年に、堤義明・元コクド会長の総会屋利益供与事件に揺れる西武鉄道グループに移った。体よく、みずほグループから追い出されたのである。
サーベラスと対峙
後藤氏は、堤義明氏の影響を排除するために、持株会社体制に移行。西武HDの傘下に、西武鉄道とプリンスホテルをぶら下げた。
その西武に支援の手を差しのべたのが米投資ファンドのサーベラス。06年に約1,000億円を出資、株式の約30%を保有する大株主となった。当初はホテル事業の支援など経営面で協力していたが、再上場の仕方をめぐってすれ違いが生じる。再上場をめぐり、サーベラスと西武HD経営陣の間で、激しいバトルが繰り広げられた。
13年3月、サーベラスが西武HDに対しTOB(株式公開買い付け)を実施、保有比率は35.45%に高まった。サーベラスはプロ野球球団の売却やローカル線の廃線を求めた。
後藤氏は第一勧銀時代の部下を西武に連れてきた。みずほ銀行広報室長だった関根正裕氏(81年入行)が危機対応に当たった。プリンスホテルの常務に就いた関根氏は事実上のナンバー2だ。「戦う広報マン」として知られる関根氏は、対サーベラスの最前線に立った。
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【大企業の「解体新書」】東芝解体の前にセゾングループの解体が(前)サーベラスは西武HDを抑え込む上で、関根氏を最大の障壁と見なし、後藤氏と関根氏との不仲説を流すなど、情報戦を展開した。だが、後藤=関根の経営チームはサーベラスの意のままにはならなかった。
(つづく)
【森村 和男】
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