有澤建設通算100周年 中興の祖・木下泰博物語(1)
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100周年に異論あり
福岡のゼネコン業界で中堅に位置するのが、有澤建設(本社・博多区)である。9月の初めにホテルオークラ玄関口には「有澤建設100周年記念式典」の立て看板がすえられてあった。現社長・木下英資氏から昨年、「近々、100周年企画イベントを行います」と聞いていたから「なるほどな」とは頷いた。しかし、内心では怒りが込み上げてきた。「なぜ?俺を呼ばなかったのであろうか!!」というものだ。
有澤建設との縁は筆者が企業調査マン時代の1975年6月からである。初対面で取材に応じた初代社長・有澤英一氏に穏やかな紳士という印象を抱いた。「この社長のためにはひと脱ぐ価値があるな」と決心したものである。1997年には、有澤建設に2棟の建売の契約を取ってやったこともあるのだ。「あーそれなのに」という苦々しい気持ちを持ったが、原因は単純明快。有澤廣己会長(英一氏の長男)が筆者を嫌がっていたから招待しなかっただけなのである。
その話はさて置き、「有澤建設の100周年は誤りである。個人通算53年しかない」という異論が飛び込んできた。弊社の同社の資料を読むと1917年1月(大正6年1月)初代社長英一氏の実父有澤恒氏が島根県で建築業を創業したとなっている。規模は有澤大工店という程度のものであったそうだ。島根で成功しなかった恒氏は状況打開に福岡へ移転してきた。1963年8月に有澤英一氏が事業を継承して1967年9月に有限会社化、1972年11月に株式会社化したとなっている。そのデータ通りであれば100周年には誤りはない。
ところが現実に食い違いがあるのである。恒氏は福岡に移ってきても商売は鳴かず飛ばずであった。地元の老舗工務店の大工下請けを細々と営んでいたそうだ。大工として腕はたいしたものを持っていた恒氏だが、経営才覚の面では劣っていたのであろう。英一氏は学校を卒業した後、福岡県警の警察官を拝命した。普通ならばそのまま手堅い公務員の道を全うするはずなのだが、退職して建設業を創業したのが1963年のことである。35歳の時であった。
生前、英一氏に幾度なく県警を退職した理由を聞いたことがある。同氏はニコニコしながら「性にあわなかっただけ」と答えてくれたものだ。さて、話はここから核心に入っていく。事情に精通した証言者によると「1963年の創業は親父・恒氏の事業とは関係なく英一氏の単独事業であった」ということである。「恒氏は故人になるまで自力で大工業をやり抜いたそうだ。だから英一氏事業とは恒氏のそれはとは別物、事業の源は1963年である。だから有澤建設の創業通算は53年」という主張が成立するのである。
木下泰博氏の入社
このシリーズを進めていく際には必ず法人化した以降の業績推移(添付PDF参照)を見つめていただきたい。話の展開はこの業績推移を頭に入れていないと理解不能になる。大志を持った英一氏が勇んで建築業を起こしたが、現実は厳しいものであった。取り立てて技術があるわけでもない。スタート時点ではまだ拾い仕事=住宅の改造工事が大半であったと聞いたことがある。現実、法人1期目1968年8月期売上2,906万円、経常利益マイナス154万円であった。
この厳しい経営状況の折にどうして木下泰博氏は入社したのか。英一氏の妻女は木下氏の姉にあたる。「泰博!!会社が火の車なのや。力を貸してくれ」と懇願されたに違いない。家族、兄弟を大切にしてきた泰博氏には断ることはできない。快諾するしか選択権は無かったのである。入社(まだ個人商店時代である)は1966年2月、23歳のことであった。翌年、有限会社の法人化へ踏みだしたのである。
(つづく)
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