2024年11月22日( 金 )

古森義久「安倍晋三氏と日本、そして世界」~追悼セミナー(1)

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 NetIB-Newsでは、(株)武者リサーチの「ストラテジーブレティン」を掲載している。
 今回は8月1日号、ジャーナリストで産経新聞ワシントン駐在客員特派員の古森義久氏による「安倍晋三氏と日本、そして世界」を紹介する。

 古森氏と安倍元首相との付き合いは約40年におよんだという。ジャーナリストとして豊富な取材経験を有し、米国通である古森氏の眼に、安倍元首相の人物像や安全保障面などの政策がどのように映っていたか、参考になればと思う。

 武者リサーチは7月21日、安倍元首相追悼セミナーを開催しました。
 産経新聞ワシントン駐在客員特派員 古森 義久 氏 をお招きし、「安倍晋三氏と日本、そして世界」と題する講演をしていただきました。同氏のご快諾を得て、講演録 (1) として当号に掲載いたします。

 同セミナーでの武者の経済面からの講演「アベノミクスの歴史的功績と日本の未来」は、次のストラテジーブレティン311号にてご報告する予定です。

安倍晋三氏と日本、そして世界

古森 義久 氏 講演録

 本日は皆さんお集まりくださってありがとうございます。このすばらしい企画、安倍晋三さんという日本にとっても国際社会にとっても特別な人が、非常に不慮のなんとも納得のできない亡くなり方をしたことに対して、まず弔意を表そう、そしてどういう実績が彼にはあったのかを語ろうという集いをこの時期に催すということは非常に前向きな日本全体にとっても大きなプラスになる企画だと思います。

若竹のような青年だった

 安倍晋三ウォッチャーというのは無数にいるわけです。安倍晋三サポーターももっとたくさん政治の世界はもちろん、ビジネス、マスコミ、あるいは学界に存在します。そんななかで、私がなぜあえて皆さまの前でお話できるのか、3つほどの背景をご説明したいと思います。もし私に安倍晋三氏を語る資格があるとすれば、第一に考えられるのは、やはり安倍さんを知って交流があった期間が極めて長いということです。考えてみると、ちょうど40年前の1982年に初めて安倍さんと会いました。私はその前に毎日新聞のベトナム特派員、その後すぐにワシントン特派員をやって、ほぼ10年海外で国際報道に没入してきました。その直後から東京での政治部の記者として外務省を担当しました。

 ちょうどそのときに安倍晋三さんは、お父さまの安倍晋太郎さん、この方も昔は毎日新聞にいましたが外務大臣になったので、その秘書官として外務省に入ってきました。まだ若くて20代の後半でしたが、彼もロサンゼルスに留学したり神戸製鋼という民間の会社で働いたりして一通りの社会生活は経てきたわけです。

 そこで記者側、外務省側、両方の若手を中心に勉強会をしようということになりました。そこに安倍さんも入ってきたのです。安倍さんが中心になるという感じはあまりなかったですが、彼は印象的な青年でした。非常に爽やかな、若竹を思わせるようなスラッとしていて、パッとポイントを突く発言をするのです。けれども時々ふと黙って深い思索に入っていくような感じがあって、そんなふうに寡黙になるのは、若者にしては珍しいなという印象を私は受けたのを覚えています。いま思えば、彼が人の話をよく聞き、その場その場でそうして聞いた言葉を深く考える習慣があった、ということでしょうか。

国際情勢への強い関心の若手政治家

 それから2つ目に、安倍晋三さんと私との交流というのはやはり国際的な文脈、国際情勢のなかでいろいろ語りあったことです。私が初めて会ってから10年近くしてから、彼は国会議員になりました。その時期、私はまたワシントンに駐在しましたが、時々東京に帰ってくる。もう少し後になると北京に駐在しました。その期間には北京とかワシントンから戻ってくるたびに安倍さんと会っていました。そのころ私は、政治家との取材のための付き合いも国際問題を語れる人、関心をもっている人に絞っていましたので、その相手は非常に数は少ない。でも安倍さんは喜んで会ってくれて、国会の会期中にも議事堂の地下の質素な食堂で何か食べながらワシントンや北京の状況を話した記憶があります。

 3番目の背景は、武者さんの方からご紹介のあったいわゆる対談(正論 2022年7月号対談「いまこそ9条語るべき」)です。元首相との対談というのはおこがましく、私が彼の話を聞くというのが本来の姿なのですけれども、彼のほうが、いや対談でいきましょう、お互い長く知っているのだから、ということになりました。その結果1時間半ぐらいの語りあいとなりました。彼の議員事務所で4月の終わりごろでした。今から思うと私と彼との1対1の話しあいはそれが最後になった。ここで彼は実にいろいろなことを語りました。一番熱を込めたのが憲法の改正ということだったといえます。

安倍氏は改革派だった?

 さて安倍晋三さんとは、一体どういう政治家だったのか。すぐに使われる言葉は保守という表現ですね。しかし、私はむしろ安倍晋三氏は改革派だと思うのです。改革というのは今、目の前にあるなんとなくもうすでにできているシステムを変えようとするということ、これが改革ですよね。それから多数派の人たちがもっている意見に対して当面は少数の立場から反論を唱える、と、これもまあ改革ですよね。古き良きものを守るという部分もあったのですが、安倍さんの政治的主張は全体としては改革だった。刷新だともいえるでしょう。しかもそれを超えるような特徴として、安倍さんはやはり現実主義者だった。世界の現実というのを見て日本の実態に反映させていくという一貫性に特徴付けられていたと思うのです。

 この点では安倍さんは先ほどご紹介のあった無抵抗の平和主義と戦った。これをもうちょっと背景を広げて申し上げると、彼は日本の戦後の異端、とくに日本が国際基準と比べて違う国なのだという、この異端と戦ったというのがなにか一番的を射ているという感じがすると思うのです。

 日本の国としての異端というのは、戦後の日本がやはり普通の主権国家、独立国家とは異なる部分がある、という意味です。これをプラスかマイナスかで分けるとどうしてもマイナスとしか思えない、日本をバランスのとれた国家として機能させていくうえではこの異端はやはり大きな欠陥になっているのだ、ということです。安倍さんは非常に若い時からその意識をもっていたということを私はかなり早い時期に知りました。

 実は、私自身は新聞記者として当初はノンポリの時代が長かったのです。けれどもベトナムとアメリカでのちょうど10年にわたる国際体験でその意識は大きく変わっていきました。我々特派員というのは外国にいながらも日本に向かって記事を書いていますから、日本の状態も普通の在外の日本人よりは細かく見ているわけです。だから日本という存在を外から見るとどうなのかということもどうしても考えざるを得ない、その結果だんだんわかってきたのは、日本という国家の特殊性、つまり国際基準からみての異端性です。

(つづく)

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