自民党と国際勝共連合の親和性
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NetIB-Newsでは、政治経済学者の植草一秀氏のブログ記事から一部を抜粋して紹介する。今回は「自民党のとりわけ清和政策研究会が国際勝共連合とオーバーラップする主張を展開してきた」と指摘した8月12日付の記事を紹介する。
米国支配勢力の最大関心事は日本を奪い続けること。日本支配の継続だ。敗戦後の日本に「解放」された瞬間があった。1945年から47年の2年間だ。当時の日本統治主体はGHQ・GS(民政局)。ホイットニー、ケーディス、マッカーサーなどが日本統治を担った。
GSが日本民主化を断行。財閥解体・農地解放・(労組)育成が一気に実行された。憲法が起案され、46年に公布、47年に施行された。わずか2年で日本民主化の骨格が組み立てられた。
47年5月の日本国憲法施行を前に4月25日に衆院総選挙が実施された。この選挙を通じて社会党が第一党に躍進し、社会党党首片山哲を首班とする片山内閣が樹立された。日本民主化は音速のスピードで推進された。しかし、大地殻変動が生じた。米国外交基本方針が転換した。新しい米国の外交基本方針は「反共」だった。
47年3月12日の特別教書演説で、トルーマン大統領は共産主義に抵抗する政府の支援方針を宣言。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。連動して対日占領政策の基本路線が大転換した。ただし、GHQトップのダグラス・マッカーサーがトルーマン大統領と犬猿の関係にあり、日本の路線転換は漸進的なものになった。
日本民主化を主導したのはGHQ・GS。この主導権がGHQ・G2(参謀2部)に移行した。参謀2部を主導したのがウイロビー少将。部下にポール・ラッシュ中佐らがいた。春名幹男氏は『秘密のファイル・CIAの対日工作』のなかで、ポール・ラッシュが日本敗戦後の公職追放に深く関与した経緯を記している。
公職追放者決定の検討に際して、吉田茂も追放候補者に掲げられた。しかし、このとき追放対象者の名簿作成で日本政府の窓口となり、GHQと折衝したのが、吉田茂外相だった。吉田外相はポール・ラッシュ、マッカーサー最高司令官、ウイロビー少将などに接触し、自身の公職追放除外工作を行ったとみられる。同時に、鳩山一郎に対する公職追放に関する情報を鳩山には伝えず、鳩山一郎の公職追放を側面支援したと考えられる。
この結果、1946年春の総選挙後に誕生するはずだった鳩山一郎内閣が消滅し、吉田茂が首相の地位を獲得した。
47年の米国転向後、GHQの対日占領政策はコペルニクス的転換を示した。民主化は中止され、非民主化路線が推進された。日本反共化政策が推進され、激烈な思想弾圧が実行された。米国は戦犯容疑者の一部を釈放し、旧軍人の再登用を推進した。
同時に日本再軍備化を推進した。この転向後、米国と結託したのが吉田茂であり、米国は戦犯容疑者の一部を釈放して日本の反共化政策を推進した。
米国が釈放した戦犯容疑者である岸信介、笹川良一、児玉誉士夫、正力松太郎などが米国のエージェントとして日本反共化政策を推進したとみられる。この過程で笹川良一、岸信介らが日本に設立された旧統一協会による「国際勝共連合」創設とその後の活動に全面的支援を行ったとみられている。
冷戦が終焉して国際勝共連合の活動意義が縮小したとの指摘があるが、これは事実誤認。米国は米国が支配する日本政治の基本構図を維持するために「反共キャンペーン」を展開し続けている。その「反共キャンペーン」の骨格を示し続けてきたのが「国際勝共連合」である。
自民党のとりわけ清和政策研究会が「国際勝共連合」とオーバーラップする主張を展開してきたことを客観的事実として確認できる。
旧統一協会の活動には重大な社会的問題が存在する。このことから、自民党政治そのものの正統性が問われる事態が発生している。
※続きは8月12日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」「自民党と国際勝共連合の親和性」で。
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