2024年11月05日( 火 )

有澤建設通算100周年 中興の祖・木下泰博物語(3)~雌伏10年を極める

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有澤建設の根幹造り

kensetutyu 木下泰博氏の悩みは続く。1975年期に5億8,700億円の完工高をあげたが、満足するものではない。大半は「建て屋」としての受注である。「建て屋では将来はたかが知れている」という批判認識を持つのは素晴らしいことだ。だがしかし、経営者というものは実践・結果が求められる。評論家ではいけない。具体的に実績を出して評価が定まるのである。悩み深いのはその後の業績数字でわかる。75年期から85年期までの売上伸長率2.4倍である(5億8,700万円から13億7,432万円)。

 極端に伸びたというほどの評価を受けるほどの実績でもない。建設業界では75年から85年の10年間の歩みでは「有澤建設はどういう会社であったかな、何だったかな?」という存在程度であった。木下氏にとって悩み深い期間であったのだ。この10年間の試行錯誤の過程で「建設業者としてどういう形を形成させるか?」という思考の苦しみのなかで「バランスが基本」という結論に達した。木下氏が求める形が脳裏に定まってきたのだ。本当に追い求めるような求道精神を貫いた。この10年間、言わば雌伏10年という期間であった。

 まず1番目に実行したのは「己が仕事をもらってくること」であった。
 75年という年は木下氏にとって32歳。現場監督から足を洗ってついに営業専従となることを決断した。当時、個人にも会社にもさほどの人脈はない。「どういう風に人脈を造るのか!!」と葛藤するなかで人と人のネットワーク造りの原点が見えだした。「相手は人間様である。彼らの喜ぶことを徹底的に尽くしていけば道は必ず拓ける」というものである。この悟りを得ることから仕事を発注する権利者へトコトン食い込んでいった。極論言えば「相手の欲することを叶ってやることで信頼を確保する」ことに終始したのだ。

arisawa まずはこの食い込み先の対象を、あまり同業者が振り向かない先に絞り込んだ。専門分野の用語でいえば「色物」物件である。飲食ビル、ソーブランド、ラブホテルなどの物件であった。78年ごろから中州1丁目界隈ではソープランドの集中投資が行われていた。このトップのオーナーの懐に飛び込んだことで「色物」物件が殺到するようになった。熊本の現場も請けるようになるほど仕事のエリアも拡大した。

 82年期に初めて完工高10億円を突破したのは、1件で4億円の現場をこなしたからである。振り返るに「何事も経験することが重要だ。どういう建築物件であれ大きな工事を貫徹できれば自信がつく。4億円という工事金額自身に怖れを抱くことがなくなった」と木下氏は語ってくれた。まず何よりも社内の技術水準がグ、グーンとアップした。建設会社の最大の信用は技術力であるが、このあたりで施工力が一皮剥けたのであろう。4億円の仕事を完遂すれば自然と1.5億円、2億円の工事が当然のように飛び込んでくるようになった。

 この「色物物件」を極めることで学んだことは、類が友を呼ぶということである。「色物物件は有澤に頼めば間違いない」という神話が独り立ちする。同業他社のオーナーから依頼が増えてくるのである。営業の効率にも繋がる。だが、この筋のオーナーは一筋縄ではいかない。いろいろと因縁をつけられて回収不能、値引きが強要され資金ショートなど、破綻する例が数多くある。この前例を学び、木下氏はパーフェクト回収に徹した。「お客には徹底的に尽くす男が、回収になると鬼にようになって徹底的に回収する」という評判が広まった。

次の飛翔のチャンスを待つ

 82年に初めて10億円台を突破した。業界では「色物物件のアリサワ」と存在が広まっていったが、他の案件でも同社にしてみれば大型の2億、3億円クラスの案件が増えてきた。また官公庁の受注も1億円を超えるようになりBクラスの看板を得ることになった。得意の住宅工事も漸次増加してきた。営業面でもスタッフが育ちはじめ、受注先も多面化しだしたことは木下氏にとっては喜ばしい限りであった。有澤建設は福岡において、ようやく中堅下位ランクにまで名を連ねるようになってきたのである。

(つづく)

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