2024年12月24日( 火 )

知っておきたい哲学の常識─日常篇(10)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

大阪に哲学あり

語る人 イメージ    福岡大学を出て文楽の世界に入り、義太夫語りとして活躍している人物がいる。この世界を知る人なら、「ああ、竹本小住太夫のことね。文楽界のホープです」と言うだろう。

 大学を出る少し前に人間国宝の竹本住太夫に弟子入り。師匠のカバン持ちをしながら芸を磨き、いまでは文楽の世界の若手の代表格となった。

 その彼は、大学時代は欠席が目立ったという。たまに授業に出ても遅刻する。担当教員に「なんで、君、いつも遅刻するの?」と問われると、平然として「先生、主役はいつも後から出てくるんです」と答えたという。大物ははじめから大物なのだ。

 筑豊出身の彼はともかく元気がよく、怖いもの知らずである。学生時代も傍若無人で、酒を飲むと大声で歌い出したり、丸暗記した浄瑠璃芝居の一段を語り出したという。今どき浄瑠璃を知っているだけでも珍しいというのに、暗記するほどだったとは、よほど文楽が好きだったのだ。博多駅から深夜のバスに乗って、大阪まで本物の義太夫を聴くに行く。それも何十回もやったというから、非凡な青年としか言いようがない。

 一体、文楽のなにがそんなに面白いのか。「語りの妙に尽きます」と彼は言う。もともとは文学好きで、三島由紀夫の世界に耽ったりもしたようだが、村上春樹が世に出るようになってからは「もう文学はあかん」と諦めたという。「あのまま文学少年を続けていたら、今頃は自殺していたんじゃないですかね」と過去を振り返っている。

 「語りの妙」ということで言えば、この小住太夫の師匠・住太夫はすごかった。今やあの世の人となったこの人間国宝が博多座に来たとき、私は運よく楽屋で話をする機会を得たが、普通に話していてもこの人には語りの妙が感じられた。語りというものが全身に滲みわたっているのだ。

 その凄さを感じたからこそ、例の筑豊の青年はこの大師匠に弟子入りを懇願したのである。そして、3回目の面談で「お前はん、顔つきがええ」と言われ、ついに弟子になれたという。

 語りの力とは、声によって私たちを日常世界から別の次元へと連れて行く力である。ストーリー性も大事ではあるが、それよりも情念の複雑な絡みを、ひと言ひと言のメリハリと声の抑揚で伝えるところが肝心なのである。今や小住太夫となった筑豊青年はそれをいたく感じた。「だって、僕らの周りに語りなんかなかったじゃないですか。」

 なるほど彼の言うとおりで、語りというものがこの現代には非常に希薄になっている。ほとんど忘れられていると言ってよいだろう。私たちの日常会話は無機質になっているばかりか、私話化している。したがって、第三者が聞いて少しも面白くないのだ。社会にとって、文化にとって、深刻な問題である。例の小住太夫君もそういう現代に危機を感じ、それで急いで大阪に向かったのだと思われる。

 その大阪であるが、この都市こそはまさに「語りの都」である。新大阪で新幹線を待つあいだ、駅の一階の小さなカフェに入った時のことだ。今も忘れないが、ひとりの初老の男性が、それとほぼ同年代の女性と話しているのを小耳に挟んだ。普段なら、すぐに聞き飽きてしまうのだが、その日はちがった。コーヒーをすすりながら、話が面白くて聴き入ってしまったのだ。

 なんでも、その女性の夫は最近定年退職したばかり。ところが退職した途端に退職金をつぎ込んでフェラーリを買ってしまった。「え?ホンマ?」と相手の男性が驚くと、「ホンマもホンマ。頭がクラクしてもうたわ」と答える。「いや、そりゃそうだ。あんたもこの歳でそんなに苦労するとは。」

 「そやけど、女に金つぎ込まれるよりはマシだったかもわからん」とその女性。なんとか自分を慰めようとしている。すると相手の男性、「アホなこと言うたらあかん。フェラーリなんか、旦那にさっさと売り飛ばしてもらって、その金で宝石の一つでも買うてもらわな」。すると、その女性、「宝石なんか、興味ない。それより、こうして誰かさんとコーヒーでも飲む方がよほどええんとちがう?」

 これが60を越した男女の会話である。最後まで聞きたかったが、新幹線のホームに向かわねばならず、残念ながら席を立った。

 博多へ向かう車中、関西人の語りの能力について思いをめぐらせた。自分の悩みでさえも物語として語れる。なんという話術、なんという健全さだろう。そう思ったのだ。

 大阪の芸として知られる漫才も同じ原理というか、技能から成り立っている。関東の人間にも、九州の人間にも、東北の人間にも、この真似はできない。漫才は練れた文化の証であって、人はひとりではいられない、話をして言い合いをしてこそ人になれるという哲学の表れなのだ。

 アメリカにニーメイヤーという心理学者がいる。その彼はこう言っている。「デカルトは我思うゆえに我ありと言ったそうですが、私ならこう言います。我々は話し合う、ゆえに私は考え始めると。」大阪人はこの哲学を実践しているのである。

(了)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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