2024年11月22日( 金 )

【経営教訓】タカギ前編:兄弟創業編 1,000億円売却という事業承継の真相~高城寿雄・“カリスマ経営”の結末~

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(株)タカギ

(株)タカギ 社屋

 3月末、北九州市の浄水器・散水用品メーカーの(株)タカギが、「事業承継」で国内の投資ファンドに売却されるというニュースが駆け巡った。だが、3年前の同社の異変を知る者からすれば、結果だけ報じた「事業承継」を額面通りには受け取れない。関係者を取材すると売却に至る顛末の驚くべき真相が明らかになった。企業経営に携わるすべての人への教訓の物語。前編ではタカギの原点である創業時の知られざる物語を紐解く。

急成長企業タカギ 経営異変から売却へ

 遡ること3年前、2020年11月に関係者らへ送付された挨拶状が受取人たちをぼんやりさせた。挨拶状は北九州市に本社を置く浄水器・散水用品メーカーの(株)タカギが送付した新役員体制の通知で、そこに記された主な役員人事は次の通りである。

代表取締役会長   高城寿雄
取締役社長(新任) 高城いづみ
取 締 役(新任) 高城寿太朗

 ほか取締役3名(うち1人社外)と監査役は留任だが、通知の要点は、代表が会長1人になったこと、会長以外に長年同社の経営をけん引してきた役員らがもはやいないこと、そして2人が新任で取締役になったことである。

 タカギの21年3月期の業績は売上高292億円、粗利益185億円、営業利益43億円、最終利益27億円、資産は総資産330億円、純資産164億円である。その20年前、01年3月期の業績は売上高53億円、最終利益4,211万円だ。20年間で売上高は5.5倍、最終利益は61倍超になっている。

 先立つ2年前の18年、寿雄氏は80歳を機に、タカギ設立以来の社長職を退き、会社の急成長をけん引してきた40代の2人の甥を代表社長と専務に昇格させ、自身は代表会長に就任した。同年に行われた会長と社長の2人代表の就任に際しては、北九州と東京でお披露目が行われ多くの取引先が参集した。タカギの取引先にとって、タカギの盤石な経営体制の維持は取引上大きな関心事であり、お祝いムードとともに有り体にいえば安堵の雰囲気があったことは間違いない。

 そのわずか2年後、新役員体制を告げる突然の通知は、それに先駆けて各取引先は同社の異変を察知していたとはいえ、取り繕いもないあからさまな役員人事の表明によって、関係者に一抹の不安を抱かせたのである。新役員体制の通知を受けたものの、唯一代表の寿雄氏は高齢で、新型コロナの流行もあり健康に配慮して表に出てこない。取締役社長となった、いづみ氏は会長夫人であるが、これまで経営には携わったことはない。また、寿太朗氏は会社案内パンフレットの代表者略歴に誕生年が記載されるほどの公然の愛息であるが、まだ20歳前である。他の役員を含めても新役員体制には寿雄氏以外、同社の経営を指導してきた人はいなかった。だが突然生じた経営空白のなかでも同社の売上と利益は伸びた。

 21年6月、取締役社長のいづみ氏が代表権を得る。23年3月、大手メディアが国内ファンドによるタカギ買収を報じた。報道によれば、「創業家の事業承継にともなうもので、買収額は1,000億円弱」であるという(電子版『日本経済新聞』23年3月31日付)。

 タカギは、1980年代から散水用品の製造販売で事業を確立し、その後、2000年代に入って蛇口一体型浄水器の販売とカートリッジのストックビジネスで急成長した。創業者の寿雄氏は、一代で事業を築いたカリスマ経営者として数多のメディアに出て、成功の軌跡とさらなる未来に向かっての夢を語ってきた。しかし、その夢のなかに「売却」の文字は一片もなかった。寿雄氏が願った事業承継の夢は脆くも打ち砕かれたが、その原因は自らまいた種であった。その真相を明らかにするために、多弁であった寿雄氏が決して語らなかった知られざるタカギと寿雄氏の人間像を明らかにする。

ものづくりの始まり 高城精機製作所の成立

 タカギのホームページで会社の沿革を見ると、タカギは1979年設立となっている。それ以前を見ると61年に「高城寿雄の個人企業として~始める」とあるばかりで、79年までの間に新工場完成や工場移転の経緯が記されているが会社があったのかどうか記載はない。しかしこの間、個人事業としてやっていたのではない。寿雄氏は66年に(株)高城精機製作所(以下、高城精機)を設立している。プラスチック射出成形用金型の製造業である。高城精機の奮闘については、寿雄氏の著書『53歳にして夢は実現する』(経済界、96年)に詳しく記されているが、ここでは寿雄氏が明らかにしてこなかった側面に光を当てて創業の真相を明らかにする。

 高城寿雄氏(以下、寿雄)は、中学生のころから発明で賞をとるなど、発明に対する情熱が人一倍強かった。高校卒業後、一時期大学も目指したが、21歳で東京に出て職業訓練所で電気系統修理を学び、短期間勤めた後、北九州へ戻った。個人事業として、当時はまだ珍しかった家電製品の簡単な電気系統部の修理や、外観の腐食防止塗装などを始めた。あるとき器用な仕事を見込まれ、プラスチック容器などをつくるためのブロー成形金型の修理依頼を受ける。金型の修理をこなすと、資金を出すので金型の製造業をやってみないかと持ち掛けられた。当時九州には本格的なプラスチック成形用金型の製造業者がなかったためだ。すると今度は別の会社から金型の図面を見せられて、射出成型用金型の製造依頼を受けた。だが寿雄は金型を製造する専門技術をもたないため、うまくいかない。

 寿雄には兄と弟がいた。3歳上の兄・憲市は、母子家庭の苦しい家計を助けるために早く専門職に就くことを目指して小倉工業高校へ進学、卒業後は東京製綱の小倉工場に就職するが、頭の良さを見込まれて工員ではなく職員として採用された。また、3歳下の弟・泰男は福岡大学の経済学部を卒業後、地元の会社に就職して初任地の東京に出ていた。母の清子は夫を戦争で亡くし、国鉄で働きながら女手1つで息子たちを育て上げた。なかでもとくに次男の寿雄が可愛いかったらしい。寿雄に頼まれたのか、あるいは清子が寿雄の苦境を見て思い立ったのか、清子は憲市と泰男に頼み込んだ。

「寿雄を助けてやって欲しい。」

 寿雄は金型製造を何とか事業としてモノにするために、東京板橋にある金型製作所に技術指導を依頼した。その際、弟の泰男をその会社で働かせて技術を身に着けさせることに決まったようである。泰男は大学を卒業し1年足らず、東京で働き始めたばかりであったが、泰男を説得するために母の清子が上京した。ひとり親である母の願いを受けて、泰男は金型製作所で働き始めた。兄の憲市も母の懇願に従って、はじめは勤め先の仕事をしながら寿雄を手伝い始めたが、その後、東京製綱を辞め、半年ほど上京して弟と同じ金型製作所で図面製作の見習いをして技術を習得した。

 寿雄の会社ではまず憲市が一緒に働き始め、4年ほど東京の金型製作所で働いた泰男も北九州へ帰って一緒に働き始めた。それと前後して、東京で知り合った九州出身の金型職人たちが5人、寿雄らの会社へやってきた。設計、フライス盤、旋盤、仕上などの各工程の職人である。腕のいい職人の有無が金型業者の実力を決める。こうして高城精機は本格的なプラスチック射出成形用金型製造業者として急速に確立した。この金型製作技術がのちの精密なプラスチック成型品の製造を可能にしたタカギのルーツである。

高城精機の和議 タカギの設立

 高城精機は金型製造業が本業であったが、業容を拡大するために、自社でも射出成形のプラスチック製品工場を立ち上げ、ピンチ(洗濯ばさみ)や容器キャップなどの製品製造を手がけるようになった。

 ところが、折しものオイルショックでプラスチック原料の入手が困難になり、プラスチック製品工場は窮地に陥った。77年、破産に瀕した高城精機は債権者との和議を申請する。会社は存続することになったが、大幅に圧縮された債務の弁済方法を債権者に示さなくてはならない。そのとき社長の寿雄が示したのは、ヒット商品の開発による債務の返済であった。一攫千金的な返済案に債権者からは非難轟々だったが、それでも返済案を認めてもらい、発明を得意とする寿雄は、ヒット商品の開発に取り組んだ。だが、会社の立て直しに精力を注いだのは寿雄ばかりではない。高城精機の従業員たちも同じである。高城精機の和議後、プラスチック製品工場と金型製作部門に残った従業員はそれぞれ6名ずつほどで、うち3名は東京からきた職人である。

 しかし、一発のアイデアでヒット商品は生まれるものではない。また、1つの製品の完成度を高めるには、何度も図面をつくり直し、金型の試作と手直しが必要だ。そのために高城精機の金型製作が力を発揮した。会社の売上を上げ、日銭を稼ぐために、日中は下請として金型の受注製作を行う。余った時間と夜、休日を利用して、ヒット商品を生むための図面作成と金型製作を行った。また、高城精機はすでに和議をして信用がないため現金払いでしか取引してくれない。新製品をつくるには先立つ原料が必要である。そこで、兄の憲市は別途立ち上げていた高城技研という別会社で手形を振り出して、高城精機に代わって原料を仕入れた。

 その甲斐もあって和議の同年、大ヒット商品「ポリカンポンプ」が生まれた。79年、和議における残債務を返済し、同年にプラスチック製品の開発・製造・販売を行う(株)タカギを設立。寿雄が社長に就任した。タカギは80年に、水の出方を5種類に変えられる散水機「ノズルファイブ」の販売を開始。その後、ガス風呂釜にシャワーを接続して温水シャワーにする「省エネシャワー」などを販売して、散水用品メーカーとしての地位を確立した。そして90年代に開発された浄水器「みず工房」は当初販売不振が続いたが、2000年代以降、蛇口一体型の開発と販売戦略の立て直しによってタカギは急成長を始める。

兄弟への非情 カリスマ経営の陰

左から2人目:泰男、3人目:憲市、5人目:寿雄、右端:清子(1955年頃)
左から2人目:泰男、3人目:憲市、5人目:寿雄、
右端:清子(1955年頃)

 タカギの事業が確立するには、創業期における兄弟の助けが重要であった。また、母の清子は兄弟で協力し合って事業を成功させることを何より望んでいた。しかし、三兄弟の仲は必ずしもうまくいっていない。創業期から金型の図面製作などの技術部門で高城精機を支えた憲市は、寿雄と協力しながらも、高城精機からたびたび追い出しを食っている。同社が1968年に経営危機から身売りの話になったとき、買い手は技術で会社を支える憲市を支持したため、寿雄は憲市を追い出して身売りを白紙にしている。77年、和議の際に憲市は呼び戻されるがすぐに2人は決裂。寿雄がタカギの経営に専念し始めたのち、憲市は高城精機に戻り、2012年にタカギに吸収合併されるまで同社の代表社長を務めた。また、弟の泰男は、高城精機の役員にはなったが、タカギの役員には一度もなっていない。

 寿雄本人は決して語らなかった創業期における兄弟の役割は、カリスマ経営者であり発明家を自認する寿雄にとって、金型の技術を確立するために行われた職人の引き抜きや技術上の争いといった秘密を含めて、窮地に陥ったときは助けを求める肉親であり、平時は経営を脅かしかねない邪魔者であり、愛憎入り混じったかけがえのない絆であった。また、寿雄が東京の職業訓練所で電気系統修理を学んでいた21歳のとき、石田武雄という経営学者に出会う。石田は後に青山学院大学経済学部教授を経て学長まで務めるが、当時、国鉄の能率管理研究所の所長であった。寿雄は、母親の国鉄の知人の縁で石田の自宅の冷蔵庫を修理して知己を得て以来、会社設立後も師と仰いで経営相談をしている。その石田から教訓された、会社の株式を必ず過半数以上持つことと経営権を独占することを、寿雄は経営の要として終生実践するつもりだった。兄弟を利用しながらも厳しく排除した非情さと、カリスマ経営者として自身に焦点を集めた経営術は、発明の才と並んで寿雄を名経営者にした素質の1つだった。それは辛い少年期を過ごした寿雄が生きる術として身に着けた素質であったかもしれない。しかし、非情さと独善をもって強みとする経営者には、いずれ自身に降りかかる非情に耐える運命が待ち構えている。

 次編では、寿雄の少年期の苦難と、事業の後に訪れた念願の幸福、そして、タカギの急成長の先にある結末の予兆を見ていく。

(つづく)

【寺村朋輝】


<COMPANY INFORMATION>
代 表:高城寿雄
所在地:北九州市小倉南区石田南2-4-1
設 立:1979年11月
資本金:9,800万円
売上高:(22/3)306億6,574万円

(中)

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