知っておきたい哲学の常識(45)─科学篇(5)
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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏
初めてカール・ポパーの名前を聞いたのは大学生の時だ。広い教室に受講者はわずか。濱井という先生が、熱心にこの革新的な哲学者について語っていた。
そのころ、ポパーはまだ日本では知られていなかった。翻訳書も出ていたか、どうか。濱井先生の声が「反証可能性」「アドホック」などの言葉を繰り返していた。そのときはピンと来なかったが、今になってなるほどと思う。
大学の講義とはそんなものだ。興味が湧かないでいる場合でも、無意識のほうが反応して、大事そうな言葉を記憶の貯蔵庫にしまい込む。そして、必要な時が来ると、鮮明なイメージとともに蘇る。
アドホックといえば、そういう名のカフェがあった。場所は覚えていないが、妙な名前のカフェだと思ったのだ。店主にはこの言葉の意味がわかっているのだろうかと訝った。
アドホックは「その場しのぎ」の意味だ。「コーヒーを喉に流し込みたい」ととりあえず入って見るカフェなら、アドホック・カフェでもいい。だが、それは理屈であって、店主にはどうでもいいことだったにちがいない。
「その場しのぎ」といえば、昨今の政治家の発言にはそれしかない。これでは国民がそっぽを向くのも無理はない。しかし、もっと深刻なのは、それを追求しようとしないメディアのほうだ。
振り返ってみると、戦前のメディアにはそれなりに力があったのではないかと思える。戦時は言論統制が厳しかったというが、統制が必要なほどに言論が自由活発だったということではないか。今のメディアは、統制しなくても統制されている。それほどに、エネルギーがない。
エネルギーがないということは、秩序崩壊が進んでいるということである。しかし、既存の秩序が崩れていくときには、必ず新たに何かが始まっているはずだ。賢明な指導者なら、その動きを察知して、そこから構築される新秩序を育てようとするだろう。それができる人がいないのが、今の日本である。
秩序崩壊を見とどけるのは容易だが、どのような再構築がどこでなされているのかを見分けるのは難しい。だからこそ、それを専門とする社会学者が必要なのだ。ところが、自然科学や人文学と比べ、社会科学は進んでいない。かつて、中国史の先生が言っていた。「東アジアで最も遅れているのは社会科学です」と。
ポパーに話を戻そう。彼が強調した「反証可能性」という概念は、万人が心に銘記すべきものである。20世紀で最も重要な概念といえるかもしれない。
彼がいうには、科学は反証される可能性を残していなくては科学ではない。地球が太陽の周りを回っているというのは永遠の真理ではなく、今のところは正しいとされているだけのもので、いつかそれが反証される可能性があるからこそ、これを科学と呼ぶことができるというのである。
これを初めて耳にしたとき、なんでそんなことをいうのかと思ったが、今になってこれはすごい発見だと思うようになった。多くの人にとって科学とは真実として出来上がっているものなのに、ポパーは科学で重要なのは真実ではなく、真実と思われていることを虚偽として証明することだと言っているのである。
「反証可能性」という概念は開かれた態度を導く。科学は開かれた態度でなくてはできない、と彼は言いたかったのである。このことは、彼が必死になって擁護しようとした自由主義の理念と通じる。彼にとって、民主主義は満場一致の正反対であって、自由主義とは、ある提案に対して反対意見が次から次へと出されることで保障されるものなのである。
たとえば町内会というものがある。日本中どこにもあるだろう。町内の住民が集まる会合である。ところが、議案が提出されても誰もこれに異議を唱えない。これでは会合を開く意味はないのだが、異議を唱えないことが慣行になっているようだ。そういうわけで、会合は満場一致の拍手喝采で終わる。民主主義国家の基礎たる町内会がこうであれば、ポパーどころの話ではない。
それにしても、ポパーはどのようにして「反証可能性」なる概念を思いついたのか。彼がウィーン生まれのユダヤ人であったことに関係するだろう。ヒトラー率いるナチスが勢力を増していくのを見て、彼はニュージーランドへ逃れた。
彼が恐れたのはなにより全体主義だった。団結を重んじ、反対意見を削除し、異分子を排除するシステムがドイツを支配し、その結果、ユダヤ人排斥となった。彼はそのようなシステムだけは許してはいけないと思った。それが彼の基本理念である「反証可能性」と「開かれた社会」になったと思われる。
ポパーは科学哲学では有名だが、世の経営者ならピーター・ドラッカーのほうが近づきやすいかもしれない。現代経営学の祖である。彼もポパーと同じくウィーン出身のユダヤ人。全体主義を嫌悪する点で2人は共通する。ポパーの本が難しいという人には、ドラッカーの本をお薦めする。日本で400万部も売れた本の著者だから、知っている人も多いだろう。
(了)
<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)
1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。関連キーワード
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