【経営教訓】タカギ後編:経営崩壊から身売りへ タカギ、1,000億円売却という事業承継の真相~高城寿雄・“カリスマ経営”の結末~
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(株)タカギ
国内の民間ファンド・(株)日本産業推進機構への売却が報じられた浄水器・散水機メーカーの(株)タカギ。売却額は880億円ともいわれる。6月8日付けで退任した高城寿雄氏はタカギの前身、高城精機製作所時代も含めると50年超にわたって代表を務めてきた。その最終的な願いはただ1つ、会社の所有権と経営権を愛息の寿太朗氏に継がせることであった。それがなぜ、売却という結末になったのか。発端となった取締役会とその後の経緯を本編で明らかにする。2844号掲載の『中編:苦難の少年から、幸福なカリスマへ』の続編。文中敬称略。
中継ぎの新経営体制 安定承継の陰
2018年、80歳になった寿雄は、代表社長を甥に譲り、もう1人の甥を専務として、自らは代表会長となった。会長と社長の就任によるタカギの経営体制の安定承継は多くの取引先に祝福された。しかし、甥2人の昇格はあくまでも寿雄の愛息・寿太朗に継がせるための中継ぎであり、それが最終的な寿雄の目標である。よって今回の新経営体制は寿雄にとって事業承継ではない。これはタカギ幹部の間でも、経営方針の骨子として共有されていた。
19年8月、母の清子が111歳で亡くなった。それまでは母親のことで寿雄と兄と弟の3人が話をすることもあった。母・清子の存在は兄弟3人で創業した直接の契機である。しかし母が亡くなり、兄弟はつなぎとめる絆を失った。19年末、寿雄は認知症の兆候との診断を受ける。
取締役
ここで、20年8月に発生した取締役会での事件と、それ以降の出来事を理解するために当時の取締役を整理しておく【表】。
このうち、白川祐治が取締役に就任した経緯について補足する。白川は福岡銀行の北九州本部長を経て副頭取になった人物である。寿雄は以前から白川を相談役として頼りにする姿勢を見せており、寿太朗の教育係にすることを考えていた。白川については寿雄の妻・高城いづみの強い希望があり、19年の段階で寿雄から社外取締役として推挙があった。しかし、他の多くの取締役は、彼が主要取引銀行である福岡銀行の現役副頭取であること、また彼の実弟がTOTOの副社長であることから、潜在的な利益相反が予想されるとして懸念を示し、取締役就任には至らなかった。だが、20年1月、寿雄のたっての希望で白川は顧問として取締役会に出席するようになった。
寿雄は4月からコロナウイルス感染の危険を防ぐために出社を取りやめ、自宅に併設された社員クラブ「もみじ荘」で執務を執ることになった。それにともなって取締役会はリモート型へと移行した。寿雄と取締役で寿雄の秘書役を務める清水は、もみじ荘からリモートで取締役会に参加し、他の取締役は本社会議室、あるいは自宅から参加するようになった。寿雄とほかの取締役とのコミュニケーションが急に限られるようになった。6月、白川と藤本が社外取締役に就任する。
20年8月27日 取締役会の異変
この日のタカギの定時取締役会では寿雄が長年夢見ていた新社屋建設に着工するための145億円の計画案が決議される予定であった。取締役会は、本社ともみじ荘のリモートで行われた。もみじ荘には議長の寿雄、久保、清水、白川。本社には英一郎、幹次郎、北畠、藤本。病気療養中の米田は関東から参加した。もみじ荘にはさらに寿雄の妻いづみと息子の寿太朗も同席している。
定例の業績・財務報告の後、議案が進行し、新社屋建設計画の議案になった。ところが、突然この議案は議長の寿雄によって遮られた。本社から参加した取締役らがどうしたことかといぶかしむなか、テレビモニターに映った寿雄は、巻物のような紙を取り出して広げ、それを読み始めた。
寿雄が読み上げた内容は、タカギの企業統治強化とスムーズな事業承継を目的にホールディングス化を目指して、寿雄と寿太朗以外が所有するタカギの全株式を寿通商が買い取るということ、そして、新社屋建設計画はいったん凍結するという内容であった。
寿雄の読み上げには気持ちがこもっているのかどうかわからない。まさに棒読みであった。事前になんの説明もない重大議案の提起に、本社から参加した取締役には戸惑いが広がり、検討するためにいったん持ち帰ったうえで再度、議案提出を求める声が挙がった。それに対して、もみじ荘側で口を開いたのは白川であった。
「本件はタカギの親会社である寿通商の決定事項として子会社へ通知している。また、会長のお考えを私が代わって伝えており、これ以上の説明は必要ない」として強い口調で決議を迫った。
強行な議事進行にほかの取締役はさらに困惑した。本社から寿雄へ問いかけるものの、もみじ荘では白川が発言を独占し、直接寿雄の口から詳しい説明はなされなかった。とはいえ、寿雄の愛息・寿太朗への将来的な事業承継はかねてより幹部全体で共有された認識であり、ホールディングス化への反対理由はなかった。強行議案の背景が明らかではなく、その後の展開への不安があったものの、議案は全会一致で決議された。新社屋建設も一時凍結が了承された。
取締役会後 追い落とし
取締役会を終えると本社で参加した取締役らは寿雄に連絡を試みたが、病気を理由に携帯はもはや寿雄の手元にはなく、連絡がつかなくなった。
そして、取締役会の異変を畳みかけるように事態は急展開する。取締役会の翌週、寿雄、清水、妻いづみは会社所有のホンダジェットで羽田に飛び、病気療養中の社外取締役・米田を羽田に呼び出して面会。米田に対して「上場を画策している」との理由で、取締役の辞任を迫った。寿太朗への完全承継が経営方針であり、上場画策は裏切りという意味である。しかし、背信の濡れ衣を着せた辞任勧告を米田は拒否。日を改めて、寿雄らは「家族経営に戻したい」という理由で米田を説得し、辞任を取り付けた。米田は6月に取締役に重任したばかりであり、任期途中での実質強要による辞任である。
9月10日、臨時取締役会。寿雄、清水、白川はもみじ荘。幹次郎、久保は本社。英一郎は出張先の札幌。北畠は中国・上海から参加した。米田と藤本の社外取締役辞任が了承。寿雄の妻いづみが執行役員に就任、会長補佐職に就いた。その後、寿雄は株を持つ親族(兄弟と英一郎、幹次郎ら)を自宅に呼び集めて、寿通商への株式譲渡契約への捺印を迫る。また、「上場画策」を理由に取締役らに辞任を迫った。9月の定時取締役会に先立ち、専務・幹次郎と久保が取締役を辞任。10月末、代表社長・英一郎が辞任した。取締役会の異変が起こってからわずか2カ月の急展開であった。辞任に追い込まれた取締役の1人は当時を回顧して次のように語った。「いずれ寿太朗に経営権を譲ることはわかっていた。そのために無情な追い出しが起こることも覚悟していた。ただそれが急にきただけだ。抵抗しても無駄だと思った」。
一方の寿雄はというと、一連の辞任をとても喜んだ。「上場を画策」していたらしい連中がいなくなり、寿太朗への完全承継という最終目標に近づいたためである。寿雄は辞任を迫ったある役員に対して次のようなメッセージを送っている。「寿太朗には『技術のタカギ』をしっかり引き継ぐから安心してほしい」と。寿雄にとって、自分がつくった会社タカギについての認識は20年以上前から何ら変わっていなかった。寿雄には自分がつくったタカギしか見えておらず、そのタカギを羽ばたかせるために力を発揮した自分以外の多くの手は、彼に見えていただろうか。
ホールディングスの異変 タカギは寿雄の手から落ちた
寿通商によるタカギ株式の買取は1株あたり1,000円で行われた。ちなみに20年度のタカギの純資産額は164億円、発行済株式数は99万6,000株、1株あたり純資産額は1万6,465円であり、買取価格1,000円は格安である。
11月2日、寿通商を寿ホールディングス(以下、寿HD)に商号変更。同日の同社取締役は、高城寿雄(代表)、高城いづみ、清水恭、高城寿太朗(20年7月7日就任)、白川祐治(社外:20年7月31日就任)、他2名である。また、同日のタカギの取締役は、高城寿雄(代表会長)、清水恭、北畠敦、白川祐治(社外)、高城いづみ(同日就任、社長)、高城寿太朗(同日就任)である。いずれも代表権をもつのは寿雄のみである。寿雄以外に同社の経営を指導してきた取締役はすべていなくなってしまった。このなかで一体誰がタカギの経営をけん引するのか。
経営への意欲を見せていたのは妻いづみである。だが、寿雄はかねてから妻いづみが経営にタッチすることを決して許さなかった。いづみは寿雄と結婚する前は宝石の個人販売などの仕事を行っていた。寿雄と結婚する前後に1年足らずタカギに出入りし、結婚して以降はタカギの業務に携わっていない。しかし、いづみは一度タカギの経営に介入しようとしてトラブルになったこともあり、寿雄は妻いづみを信用せず、決して経営にタッチさせようとしなかった。ちなみに、いづみは旧姓・鶴原、北九州の老舗・鶴原薬品の会長の娘である。
寿雄は、愛息・寿太朗のために経営陣を追い出すことには同意したが、いづみを代表につけることには同意していない。株式の買い集めによってタカギは寿HDの完全子会社となった。寿HDの株式は寿雄と寿太朗で分け持つが、寿雄は寿HDの黄金株(拒否権付株式)をもっているため、寿HDもタカギも寿雄の支配下にある。現状では、いづみは寿雄の同意がなければ代表取締役になれない。
一方で、いづみと白川の間にも軋轢が起こっていた。いづみは代表権がないものの、社長である。よって、いづみを中心に、空白が生じた経営の立て直しを図るが、いづみは経営経験がまったくないため、取締役会ではたびたび白川から発言を訂正され、発言できなくなったいづみは鬱状態になり、病気を理由に会社に来なくなる。白川が取締役会の実権を握り始めていた。いづみはかねてから懇意にしていた福岡財界の重鎮に事態を相談。白川の追い出しにかかった。
21年6月14日、妻いづみがタカギの代表社長に就任した。寿雄はいづみに経営を任せることを否定していたのになぜか。実は同年1月に、寿雄の寿HDの黄金株を普通株へ変更する登記がなされていたのである。その結果、寿HD・タカギともに寿太朗の支配下となっていた。もう1人、同日に代表権を得た人物がいる、取締役の清水である。彼は研究畑の人間であり、企業経営の力はまったくないにもかかわらず、タカギの代表専務に就任した。ところが、7月28日、清水と白川が、タカギと寿HDの取締役を辞任する。清水のタカギ代表専務はわずか1カ月余りである。思惑が入り乱れた取締役人事における闘争が透けて見える。翌29日、妻いづみが寿HDの代表社長に就任した。いづみはついに寿雄と同等の経営権を得て、また、息子・寿太朗を通して寿雄以上に会社に対する実質的所有権も獲得した。
その後、寿雄が夢想だにしなかった結末が待っていた。23年3月、タカギと国内ファンド(株)日本産業推進機構(東京都港区、代表:津坂純。以下、NSSK)との資本業務提携が発表された。6月1日、タカギが寿HDを吸収合併し、寿HDが持つ特許権等のすべての権利を引き継いだ。6月8日、タカギとNSSKは業務提携を正式調印。同日、寿雄の代表会長と取締役退任が社内通知された。1979年11月にタカギが設立されてから43年超、前身の(株)高城精機製作所(66年5月設立)を含めると57年超にわたるカリスマ経営の軌跡は終わった。
次回、総括編では、タカギの顛末に関わった人物たちの人間関係と思惑を明らかにし、タカギの事例から得るべき教訓を総括する。
【寺村朋輝】
<COMPANY INFORMATION>
代 表:高城いづみ
所在地:北九州市小倉南区石田南2-4-1
設 立:1979年11月
資本金:9,800万円
売上高:(22/3)306億6,574万円法人名
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