2024年11月05日( 火 )

55年連れ添いの伴侶の死から何を学ぶか(2)二酸化炭素過多で死す

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50年間、治療法の進展なし

病室 イメージ    悦子の病名がALS(筋委縮性側索硬化症)と決定したことを身内に知らせた。早速、姉の次女から電話がかかってきた。現在63歳である。昔、古賀市内の高等看護専門学校へ通っていたことがある。宮崎から出てきたところで、見知らぬ土地である。週末には食事のために、よく拙宅へ来たものである。だから義理の伯母・悦子に非常に親近感を抱いていたのであろう。非常に心配しての電話であった。「おばさんは難儀な病気になってしまったね。おじさん、苦労するよ!」と、プロの忠告である。事の重大さを噛みしめた。

 姪によると、45年前に授業で教えられたことを、一語一句、鮮明に覚えているとか。「ALSという難病があります。脳の指揮系統の能力が低下していき、体を動かすのに必要な筋肉が徐々にやせていって、思うように動かせなくなる病気です。病人にとっては、頭の方は死ぬまで正常ですから、精神的にも過酷な病気です」と教えられたという。姪の言葉は、電話の終わり頃には涙で詰まり始めた。「50年経っても治療方法はなにも進展していません。医療の進化がないことに怒りを覚えます。悦子おばさんは本当にかわいそうです」と語るのである。

 このALSの患者は約1万人いるといわれている。実際、同様の患者をもつ家族が、筆者の周囲にもたくさんいる(身内が病気になると、同じ病名で苦しんでいる家族と知り合いになることが多い)。40代で発病するケースも多いようである。この年齢での発病者は60代まで生きる。つまり、およそ20年間の闘病生活を送ることになるのであり、家族も看病に苦労しているようだ。悦子みたいに74歳前後の高齢で発病すると余命は短い。4~5年の間に人生を全うする。故人も発病後、4年の命であった。

「二酸化炭素で死す」? 誰にも理解不能

 主治医から「CO2の濃度が高くなると患者は意識不明になって死んでしまう」との説明を受けていた。だから、医療に関心をもつ友人たちに話をしてみた。「悦子は最終的にはCO2過多で死ぬようだ」と。誰もが「CO2過多で死ぬなんて、初めて聞いた」と首を捻りながら、不可解な顔をしていた。医療従事者にも同じ言葉を伝えたが、「そんなことは聞いたことはない」と、吐き捨てるような返事であった。厳密にいえば、「CO2を吐き出す能力が衰えると酸素を吸収する力を失って酸欠になって死んでしまう」という意味だったことを知ったのは、訣れの日のことである。

PaCO2とは

 入院前の3月2日、「血液(動脈血)ガス分析」という血液検査を行った。そのとき、この数値(単位mmHg)は49.8であった。前日は41であった。主治医の解説によれば、「40.0が正常ラインぎりぎりです。これが60PaCO2に達すると、意識が朦朧となります。80を超えたら気絶してしまい、呼吸が中断されますから、酸欠で死に至るのです」とのこと。悦子の亡くなる前の6月22日のPaCO2の値は161.0だった。とんでもない数字である。主治医の説明でいけば、悦子はこの時点で死んでいたはずなのだ。1日間、息も絶え絶え、意識が朦朧とするなかで生き抜いてくれた敢闘精神に、心からの敬意を表したい。

最期 酸欠で息を引きとる

 息をひきとる1日前の6月22日夕方、病院から呼び出され、慌ててタクシーを飛ばして病院へ直行する。この時点でもう意識は定かではなかった。酸素マスクをしながら息を吸う、そして吐くというタイミングをみながら、ハラハラしていた。吐き出した後に吸入することが中断するのではないかと、不安に駆られていたのである。いずれにせよ、こういうふうに酸素マスクの助けがなければ、入院して110日も生き続けることはできない冷厳な現実に直面していた。最期は呼吸するというよりも必死で酸素をつかむという感じであった。この晩は、生命体の生きる執念をまざまざと見せられた。

脈が弱くなる

 看護師さんたちは「奥さんの生命力はお強い」と褒めてくれた。あの世に旅立つ直前の20時、ひとりの女性看護師が酸素補給をしてくれた。彼女が「ただ酸素を補給すれば良いというものではありません。酸素が体内をめぐればCO2が溜まる。このCO2を吐き出す力を失えば、酸素を吸収することができなくなり、死に至ることになります」と説明してくれたおかげで、やっと腑に落ちた。「CO2を体外へ吐き出す力がなければ酸素の吸収ができない。CO2過剰で死ぬというのは、こういう意味だったのか」と理解したのである。

 男性の看護師さんから「脈が弱くなりました。息子さんを呼んでください」と最後の通告を受けたのが20時半である。息子・崇が21時半に到着した。確かに呼吸が弱くなり始めていた。訣れの時が迫るなか、3分ほど、悦子は精一杯の残った力を絞りあげ、遺言のようなことを伝えようとしていたが、声にならずこちらは理解できなかった。「幸せであった」と言ってくれたかどうかはわからない。だが、これだけは確かである。最期の最期まで、聡明であり続けた妻であった。

(つづく)

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筋萎縮性側索硬化症』(日本神経学会)

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